昨今、多くの人が履いているスニーカー。
当たり前だがそのスニーカーにも深い歴史がある。
まず運動靴としてアスリートが履き始め、スポーツの現場で機能的に進化を重ねた。
その機能美がファッションとして昇華し、ストリートの若者に受け入れられた。
今では売っている靴の70%以上がスニーカーだというデータも出ている。
1900年代の初めには誰も履いておらず、2000年代の初めも35%前後だったというデータもある。
特に日本人はスニーカーを愛し、熱狂した。
その熱狂具合は、スニーカーの中心地がTOKYOになった程。
なぜ日本は、いや世界はここまでスニーカーに熱狂したのか…。
そして、これからも熱狂するのか?
スニーカーの誕生から現在までを振り返る。
スニーカー年表
Chronology of SNEAKER.
vol.01
vol.02
vol.03
vol.04
vol.05
vol.06
vol.07
スケートボードの誕生は1940年代にさかのぼる。最初はカリフォルニアのサーファーたちが、波のない日でも“陸でサーフィンを楽しむための遊び道具”として使いはじめたのが起源とされる。やがて子どものおもちゃから、若者文化の象徴へと進化し、現在のストリートカルチャーの礎を築いていった。
そもそもサーフィン自体の歴史は非常に古い。西暦400年頃にはハワイで生まれ、王族や戦士の儀式にも用いられたという。そんな伝統的なサーフィンを20世紀に現代的スポーツへと押し上げた人物が「近代サーフィンの父」と呼ばれるデューク・カハナモクだ。彼の存在が、サーフィンとアメリカ本土の文化を繋ぎ、ひいてはスニーカーとの出会いを生むきっかけとなった。
その出会いの相手こそ、|VANS|の創業者ポール・ヴァン・ドーレンである。|adidas|がバスケットボールやテニスといった競技用シューズで革新を起こしていた同時期、ヴァン・ドーレンは「サーファーやスケーターに本当に必要な靴とは何か?」を模索していた。
そして誕生するのが、スケートボード専用シューズ。頑丈なキャンバス、グリップ力のあるワッフルソール。まさにストリートのために生まれたデザインだった。
スニーカーとスケートボード。この二つが出会った瞬間、ただの遊びはカルチャーへと変わり、世界中の若者を惹きつけるライフスタイルが始まったのである。
滑り落ちないスニーカー
デッキシューズの誕生
1934年頃のこと。|TOP SIDER|創業者ポール・アリング・スペリーは、自家用ボートでの航海中にデッキで足を滑らせ、海へ転落するという事故に見舞われた。
「なんてドジな話だ」と思うかもしれないが、当時は現在のように滑りにくいソールを持つシューズは存在せず、濡れた船上で転落するのは決して珍しいことではなかった。
九死に一生を得たスペリーは、同じ事故を繰り返さないために“滑らないシューズ”の開発に挑戦する。しかし試作を重ねても思うような成果は出ず、失敗が続く。
そんなある日、氷の上を軽やかに走り回る愛犬の姿を目にする。なぜ犬は滑らないのか――。観察してみると、肉球の表面には細かな溝が無数に刻まれていることに気づいた。
閃きを得たスペリーは、靴底にカミソリで溝を刻みながら試行錯誤を重ね、やがて魚の骨のような「ヘリンボーン状」のパターンこそが最も高いグリップを生むことを突き止める。
こうして“滑らない靴”は形となり、後の「トップサイダー」へとつながっていくのだった。
1935年、ポール・スペリーは|SPERRY TOP SIDER|を創業。2年後の1937年には、独自に編み出した“滑らないソール”の特許を申請する。
創業当初はソール単体の販売を試みたものの、製造コストが高く、当時の靴よりも割高になってしまい断念。そこで意外なパートナーに手を伸ばす。なんと|CONVERSE|と手を組んでいたのだ。
その方法は実に手間のかかるものだった。コンバースから未加工のラバーソールを受け取り、スペリーが独自の加工を施して再び送り返す。そしてコンバースがシューズとして完成させて返送する――という複雑なリレー形式だったという。
その後は|Keds|を展開していたU.S.ラバーカンパニーと提携し、開発体制を強化。1939年には、ついにアメリカ海軍の公式シューズとして採用されるまでに成長した。
そして1940年、事業をU.S.ラバーカンパニーへ譲渡。ここから「SPERRY TOP SIDER」の名はアメリカ全土に広がり、海の男たちの象徴として確固たる地位を築いていったのである。
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近代サーフィンの父がきっかけ?
VANS誕生秘話
1912年のストックホルム五輪で100m自由形金メダルを獲得したデューク・カハナモクは、「近代サーフィンの父」と呼ばれるほどサーフィンを愛し、その普及に生涯を捧げた人物だ。ハワイで生まれ育った彼は、祖国の伝統文化であるサーフィンを世界に広めることを使命と感じ、オーストラリアやアメリカ本土を巡ってデモンストレーションを行った。
特にカリフォルニア州ハンティントンビーチでは、大会を主催して若手サーファーを育成するなど、組織的な活動にも力を注いだ。競技者としての輝かしい実績だけでなく、文化の伝道者としての顔も持ち、デュークの影響はサーフィンをスポーツとして確立させるだけでなく、カルチャーとしての地位を築くことにもつながったのである。
デューク・カハナモク 【五輪選手・サーファー・俳優】
1890年ハワイで生まれる。
ビーチで雑用をこなし日銭を得る「ビーチ・ボーイ」として少年時代を過ごす。1911年にアマチュアの水泳競技会で世界記録を4.6秒縮める記録を叩き出し、オリンピック代表の座を手に入れる。1912年のストックホルム五輪で金メダルを獲得。その後、2つの金メダルを獲得後、引退するとサーファーとして活動し、「近代サーフィンの父」と呼ばれる。また、ハリウッド映画にも数多く出演し、ハワイ・水泳・サーフィンの魅力を伝える事に尽力した。
1964年、|VANS|創業者ポール・ヴァン・ドーレンは、当時副社長を務めていた|Randy’s|の一員として、デューク・カハナモクが主催する「The U.S. Open of Surfing」に参加する。ここで、伝説のサーファーであるデュークと初めて出会い、運命的な交流が始まった。
ヴァンはデュークにカスタムメイドのスニーカーを提供。これがサーフィン業界での認知を得るきっかけとなり、彼の名は次第に広まっていった。やがて経営陣との意見の相違からRandy’sを退職したヴァンは、1966年に|VAN DOREN RUBBER COMPANY|を創業。そして今もVANSの代名詞として知られるモデル「AUTHENTIC」を生み出すことになる。
当時のサーファーたちは、海の近くに住みボートを利用することも多かったため、脱ぎやすくグリップ力のある|SPERRY TOP SIDER|のデッキシューズを愛用していた。その影響を受け、VANSの「AUTHENTIC」には1970年代からサーファー仕様の「ワッフルソール」が採用され、瞬く間に支持を集めることになる。
こうしてサーフカルチャーとスニーカーは密接に結びつき、今日のストリートカルチャーの礎となったのだった。
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ユーザーの希望が形に
それがスニーカーの本質か?
|VANS|創業時は、オーダーを受けてから靴を製造し、それを直接顧客に手渡しするオーダーメイド制を取っていた。
スケートボードでは利き足の靴底が早くすり減ってしまうと聞き、片方の靴のみでも購入できるようにしたこともあり、特にスケートボーダーに人気となる。
そんな中、サーフィンの影に隠れていたスケートボード業界が5人の若者の出現によって大きく変化する。
それが「Z-BOYS」で、彼らがスケートボード業界を変えて円熟させる。
Z-BOYS 【スケートボードチーム】
1971年、ベニスビーチのサーフショップ「ジェフ・ホー・サーフボード&ゼファー・プロダクション」からゼファーサーフチームが誕生。ショップ周辺は「ドッグタウン」と呼ばれ、外部サーファーを寄せ付けない文化があった。
1975年、サーフチームからスケート専用チーム「Z-BOYS」が独立。ステイシー・ペラルタらオリジナル5人に加え6人が加わり、総勢11名に。雑誌の表紙を飾るほどの人気を博し、乾いたプールでの滑走など革新的なスタイルで知られた。
1976年、スポンサー契約により解散。しかし彼らのスタイルは、後のスケートカルチャーに大きな影響を与え続けている。
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スケートボード革命「オーリー」誕生
とスケートシューズの変化
1979年、スケートボード界に大きな革命が訪れる。
BONES BRIGADEに所属していたアラン・ゲルファンドが、ボウルで自らの力だけで飛び上がる新しいトリックを成功させたのだ。この革新的な動きは瞬く間に話題となり、アラン自身のニックネーム「オーリー」と呼ばれることになる。
オーリーの登場は、スケートボードの可能性を一気に広げ、空中での自由な動きを実現するトリック文化の礎となった。
BONES BRIGATE 【スケートボードチーム】
ステイシー・ペラルタが1979年に立ち上げたスケートボードチーム。スケートボード史上最高のチームと言われており、現在のスケートボードシーンを作り出したと言っても過言では無い。
その後、同じBONES BRIGADEのロドニー・ミューレンが、ついにフラット(平地)でのオーリーに成功。これによりスケートボードは一気に一般へ広まり、同時にシューズの摩耗も格段に激しくなる。
当時、スケーターが履くシューズはキャンバス素材が中心で、王者的ブランド|VANS|も経営危機の最中。彼らが望む「スケートボード専用シューズ」はまだ存在していなかった。
そのため、1970年代からは頑丈な革製のバスケットボールシューズ(以下、バッシュ)が代替として使われるようになる。中でも「AIR JORDAN 1」はつま先側のソールが薄く設計され、オーリーなどのトリックに最適。BONES BRIGADEのメンバーやマーク・ゴンザレスなどのトップスケーターたちも愛用し、その後のスケートカルチャーに大きな影響を与えた。
マーク・ゴンザレス【アーティスト・プロスケーター】
1968年カリフォルニア州サウスゲートで生まれたメキシコ系アメリカ人。
ストリートスケートボード創成期にシーンを牽引し、|VISION|からサポートを受けるが、1988年に自身のブランド|Blind|を立ち上げる。その後も多くのブランドを立ち上げるだけでなく、アーティストとしても活動し、|adidas|や|Supreme|、|UNIQLO|などで自分のデザインしたアイテムをリリース。自身のブランド|Mark Gonzales|でも自身がデザインしたアパレルもリリースしている。
こうして有名ライダーたちがバッシュを履き、その姿は雑誌『THRASHER MAGAZINE』やビデオを通して一般のスケーターにも届くことになる。
バスケットボールを知らないスケーターたちは、雑誌から情報を集めて憧れのシューズを手に入れるという、少しユニークな状況が生まれた。
「AIR JORDAN 1」のライバルである|CONVERSE|の「WEAPON」など、スケーターたちはさまざまなバッシュを履き、スケートボードに明け暮れた。その中でも、学生用として発売され人気のなかった|NIKE|の「DUNK」は安価で手に入り、経済的に余裕のないスケーターたちに愛される。
後に藤原ヒロシが韓国で発見し大ブームとなるが、それはまた別の物語だ。
こうして1980年代は、「スケーターシューズ=バスケットボールシューズ」という構図が確立されていたと言える。
スケーターシューズブランド乱立とスノーボードへの進出
バスケットボールシューズを履くスケーターが増えると、スケートボード用シューズがビジネスになると感じた多くの人々が動き出した。
その先駆けとなったのが、1986年に当時の世界チャンピオン、フランス人ピエール・アンドレが設立した|Etnies|。世界初のスケートシューズブランドとされ、その後のスケートシューズ市場の礎を築いた。
続いて登場したブランドの中でも特に影響力を持ったのが|AIR WALK|と|DC SHOES|だ。
|AIR WALK|は1986年に、スケートボードのトリック名を由来に設立。「エニグマ」や「ベロシティ」といった名作を生み、藤原ヒロシの紹介もあり日本でも人気を博した。1988年にはスノーボードブーツの販売も開始し、スノーボードブームと共に一気に注目ブランドとなる。
|DC SHOES|は1994年にスケートボードシューズを販売開始、1997年にはスノーボードブーツ市場にも進出。
|Etnies|は1995年に|ES|、1996年には|Emerica|を姉妹ブランドとして展開し、ブランド群としての影響力をさらに拡大した。
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シグネチャー
スケートシューズの歴史
少し話が戻るが、この|Etnies|が1987年に世界初のシグネチャースケートシューズ「NATAS」を製作する。
シグネチャーシューズ 【Signature shoes】
シグネチャーは「署名」を意味する英語。特定の人の名を冠したシューズ。
ナタス・カウパス【プロスケーター】
1969年カリフォルニア州サンタモニカで生まれたアメリカ人。マーク・ゴンザレスと共に創成期を牽引したストリートスケートボーダー。1987年に世界初のシグネチャースケートシューズを|Etnies|から発売。
ナタスの芸術的センスは周りのスケーターからも尊敬されており、デザインにも影響を与えていた。
しかし、彼の魅力はトリックの独創性と洗練されたファッション。「NATAS」が発売された後も、|CONVERSE|の「Dr.J」を着用していたり、まだシグネチャースケートシューズは認知されていなかった。
それを打ち破ったのは、未だにスケート界で1番のシグネチャースケートシューズ「HALF CAB」の考案者スティーブ・キャバレロだ。
スティーブ・キャバレロ 【プロスケートボーダー】
1964年アメリカ生まれ。
1979年のスケートボードの全米大会で5位となり、ステイシー・ペラルタから|POWELL PERALTA|のスポンサードを受けることとなる。1980年からプロになると、「CABARERIAL(通称:CAB)」というトリックを発明。1987年にはハーフパイプで11フィートを記録し当時の世界記録を樹立。
1989年に経営危機を脱した|VANS|もシグネチャースケートシューズを発売することとする。
BONES BRIGATEに所属していたスティーブ・キャバレロのシグネチャースケートシューズを作ることとする。
当時、スティーブは「AIR JORDAN 1」を履いてハーフパイプのエアの高さ世界記録を持つなど、パークで活躍していた。
その為、足首のホールド感が高いハイカットの「CABALLERO」を発売する。
このシューズは、スティーブの人気もあり沢山の人の支持を集め、多くのスケーターの足元を着飾る事になる。
しかし、この時期からパークではなくストリート(通常の路上)でスケートボードをする人が多くなり、複雑な路上に対応する為に足首部分をカットしMidカットとして着用する人が多くなってくる。
スティーブ自身もカットするようになった為、|VANS|にお願いし、Midカットの「CABALLERO」を発売することとする。
1992年にいまだに一番有名なスケートシグネチャーシューズ「HALF CAB」を発売する。
名作DUNKの復刻と
|NIKE SB|誕生
1990年前後の渋カジブームから世間的にアメリカへの興味が高まり、ヴィンテージ古着の価値が高まる。
1990年代中盤になると、ストリート系ファッションが中心となっており、スケートボードの影響力はとてつもないものになっていた。
スケーターを見た若者たちはバスケットボールシューズやスケートシューズをストリートでも履き始める。
既にファッションアイコンとなっていた藤原ヒロシが好んで|NIKE|の「DUNK」を履いており、フォロワーたちは買い漁っていた。
しかし、日本の正規である「ナイキジャパン」は販売しておらず、アメリカから中古・新品関わらず輸入するしか無かった。
ヴィンテージスニーカーブームでもあったため、拍車をかけるように価値が上がり、「買いたくても買えない」という状況が続いていた。
|NIKE|は一時的なブームと考えストリートとは距離をとっていたが、ハイテクスニーカーブームが落ち着いて業績が悪化。
さらに、ライバルである|adidas|が1996年に「ADIMATIC」を発売するなど、ストリートと距離を詰める戦略をとっていた。
ただし|NIKE|としては、あくまで「ハイテクシューズでアスリートをささえる」企業。ハイテクなスケートシューズを発売。
しかし、スケーターはアスリートでは無く、アティチュードを重視しており、あまり販売は好調では無かった。
1999年に満を持して「DUNK」が復刻。
大きな反響呼び、さらに|NIKE|は攻勢に転じ「DUNK」をベースにスケートシューズ「NIKE DUNK LOW PRO」を製作。
今までの苦戦が嘘のように大人気となり、2002年にサンディ・ボディッカーによって|NIKE SB|が誕生する。
サンディ・ボディッカー氏は「|NIKE SB|の父」と呼ばれ、アスリートブランドである|NIKE|にストリートの視点を入れ、|SUPREME|などとのコラボにより大人気となった。
スケートシューズという小さなカテゴリにも関わらず、ストリート全体に影響を与え|NIKE|内でも|NIKE SB|は大きな存在感を示している。
また、サンディ・ボディッカーのイニシャルも「SB」であることも面白い。
その人気に追随するように2006年に|adidas|が|adidas skateboarding|を発足。
マーク・ゴンザレスなどの人気スケーターも所属するなど|NIKE SB|にならってスケーターに受け入れられる戦略を取った。
バスケットボールによって多くの機能が付加されたスニーカー(バスケットボールシューズ)は、スケーターたちによってストリートに浸透する。
その後、世界中でスニーカームーヴメントが湧き上がるが、ファッションを追求する日本人から生まれていったのである。
その詳しい歴史はまた別のお話で伝える。
