昨今、多くの人が履いているスニーカー。
当たり前だがそのスニーカーにも深い歴史がある。
まず運動靴としてアスリートが履き始め、スポーツの現場で機能的に進化を重ねた。
その機能美がファッションとして昇華し、ストリートの若者に受け入れられた。
今では売っている靴の70%以上がスニーカーだというデータも出ている。
1900年代の初めには誰も履いておらず、2000年代の初めも35%前後だったというデータもある。
特に日本人はスニーカーを愛し、熱狂した。
その熱狂具合は、スニーカーの中心地がTOKYOになった程。
なぜ日本は、いや世界はここまでスニーカーに熱狂したのか…。
そして、これからも熱狂するのか?
スニーカーの誕生から現在までを振り返る。
スニーカー年表
Chronology of SNEAKER.
vol.01
vol.02
vol.03
vol.04
vol.05
vol.06
vol.07
INDEX
スニーカーとは何か?
広辞苑によると、「底がゴム製の運動靴」とあるように、ソールがゴム製のものがスニーカーと定義している。詳しくは、こちらの記事を見ていただきたい。
スニーカーの起源は諸説ある。
前回の記事では、バスケットボールシューズの説と、ボート競技用シューズの説を説明させていただいた。
今回は、もう一つの説。一人の青年が「速く走りたい」という想いを形にした説を説明する。
そして、多くの人がその「速く走りたい」と想いを抱いた理由になった、近代オリンピックの誕生の話。その歴史を振り返る。
「速く走りたい」想いが結実
陸上用スパイク誕生
1895年、イギリス・ボルトンという小さな都市。
そこに「速く走りたい」と誰よりも願う青年がいた。
後の|Reebock リーボック |創始者となる、ジョセフ・ウイリアム・フォスターだ。
フォスター青年は、「ボルトン プリムローズ ハリヤーズ」という陸上クラブに所属していた。
毎日毎日、速く走る事だけを考えて、靴に目を付ける。
それもそのはず、フォスターの祖父であるサムは有名なクリケットシューメーカー。
フォスターは小さい頃から、靴作りを身近に感じていたのだ。
そのため、靴を改良して「速く走る」目標を叶える事とする。
フォスター青年は、しっかりと地面を掴んで速く走る為に、靴底に1インチの釘を打ち付けた。
アッパー素材には、現在でも使用されているような柔らかいレザーと硬いレザーを採用。
そして、「フォスター・デラックス・スパイク」と名付ける靴が誕生する。
早速、その靴を履いて走ってみると、効果てきめん。フォスター青年の「速く走る」という想いが形となった。
そのスパイクは、多くのランナー達の注目の的に。
やがて、注文が殺到するようになり、フォスター青年は事業とする事を決断する事となる。
オリンピック復活
なぜ「平和の祭典」と呼ばれるのか?
1896年、フランスのクーベルタン男爵によって、近代オリンピックが復活する。
この近代オリンピックを説明する前に、古代オリンピックを簡単に解説する。
古代オリンピックは、紀元前778年から紀元前393年までに293回も開催された神々に捧げられるスポーツ競技のお祭り。
元々、スポーツは死者の魂を楽しませるものだと信じられていて、特にギリシャ・アテネでは、ゼウスの心を慰める神聖な行事だった。
それでは、なぜ「平和」なのか?
答えは簡単。大会期間中とその前後は、一切の争い事を禁止されていたからだ。都市国家間の戦争はもちろん、裁判や死刑執行も一切行われなかったという。
この休戦期間というのが、競技の行われる数日間とかだけでは無く、前後1ヶ月だった。その後、競技者や観客が遠くから来るようになってからは、前後2ヶ月に延期されている。
また、当時の競技者はギリシャ全土から集まっていた。彼らは、別に故郷の代表者では無く、いろんな地位の人が参加していた。
つまり、あらゆる階層の人がそれぞれ個人の資格で参加していた。貧困の極致にあった少年が、勝者となってたちまち富と名声を得ることもあったという。
その平等性も含め、古代オリンピックは「平和の祭典」と呼ばれるようになったのだ。
オリンピック復活の道
ヨーロッパ各国で開催されていた?
近代オリンピックの父は、フランス人のピエール・ド・クーベルタン男爵と言われている。
しかし、オリンピックは各地で行われていた。そう、クーベルタン自身もその各地で行われていたオリンピックを見学し、今現在まで続くオリンピックを作り出したのだ。
ピエール・ド・クーベルタン【近代オリンピックの父】
1836年にフランスで生まれた近代オリンピックの基礎を築いた創立者。
フランスへの愛国心が強く、教育学に興味があったクーベルタン。
普仏戦争で負けたフランスをより良い国にする為に教育を通じて行うこととする。
普仏戦争【戦争】
1870年7月から1871年5月まで続いたフランス帝国とプロイセン王国(ドイツ)の間で行われた戦争。
プロイセン王国が周辺国と同盟を結び、フランスに圧勝。
この戦争を契機にドイツが統一され、フランス第二帝政は崩壊する。
その足掛かりとして、パブリックスクール視察のためにイギリスに渡る。
ラグビーの発祥地であるラグビー校に行って体育の必要性を感じる。
スポーツでフランスを強くする事にしたクーベルタンは、その後もイギリス・アメリカなどで見聞を深める。
そんな中で、クーベルタンは「タイムズ」に論文を載せ、それと共にスポーツに対するアンケートを載せる。そこで運命の出会いをする。
イギリスで「ウェンロック・オリンピックゲームズ」を運営していたウィリアム・ブルックスだ。
当時、ギリシャやイギリスでは古代オリンピック、その土地なりの解釈で復活させていた。その一つが「ウェンロック・オリンピックゲームズ」。
ブルックスとやり取りをする中で、そのオリンピックを見に行くことになる。その見学によって、クーベルタンは「近代オリンピック」を作る事を決めるのだ。
オリンピック復活の道
花形「マラソン」の誕生。
陸上競技の花形である「マラソン」は、近代オリンピックの第一回大会に産声を上げる。
第一回大会は、クーベルタンの想いとは裏腹に、古代オリンピックの聖地であるギリシャのアテネが開催される事となる。
開催地が狙い通りにはいかなかったものの、成功させたいクーベルタンは、そのギリシャの歴史にまつわる故事をレース化した。それが「マラソン」だ。
初めてのマラソンは、落伍者が続出する中で、ギリシャ人青年のルイスが優勝し、一躍時の人となる。こうして、マラソンそして陸上競技がオリンピックの花形競技となる。
1895年に「フォスター・デラックス・スパイク」を生み出した、ジョセフ・ウイリアム・フォスターは、周りのランナーから大量の注文を受ける。この人気を受け、J・W・フォスター社」を設立。
最初は、短距離用のスパイクを中心に製作していたが、オリンピックでのマラソン人気を見た?のか、ロードランニング用のフラットなラバーソールの靴も製作。
世界記録を計28の世界記録を樹立したアルフレッド・シュラブも愛用した事もあり、一躍人気のメーカーになる。
1900年には、スポーツ大国イギリスでスポーツシューズの代表的なブランド|Reebok リーボック |が誕生。
1924年のパリ五輪では、|Reebok |のスパイクを履いたハロルド・エイブラハムスが100m走で金メダルを獲得。
このハロルドはユダヤ人の青年で差別を受けながら、努力により金メダルを手にした。
その話が映画「炎のランナー」で語られている。
炎のランナー【映画】
1981年にイギリスで製作されたドラマ映画。第54回アカデミー賞作品賞を受賞。
走る事によって真のイギリス人になろうとするユダヤ人の少年と神のために走るスコットランド人牧師の2人を描いた映画。
スポーツシューズの誕生は、やはりスポーツ生誕の国イギリスで誕生した。
そのイギリスの流れを汲んで、フランス人クーベルタンが近代オリンピックを誕生させる。このオリンピックが、靴の進化・靴の普及に貢献する事となる。ただ、これはまた別のお話。
次は、1900年代、現在にも残る強力なブランドが二つも創業した。矯正靴として誕生した|NEW BALANCE ニューバランス|。
もう一つは、ラバーシューズメーカーとして誕生した|CONVERSE コンバース|。その二つのブランドの誕生物語。
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