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|NIKE ナイキ|とは、フィル・ナイトとビル・バウワーマンと創業したフットウェアブランド。
世界一の売上を誇るフットウェアブランド。この人気はどこから生まれるか?が分からない人も多いのではないでしょうか。
実は誕生から成長の歴史には、日本は切っても切れない存在だったのです。
創業者のフィル・ナイトが日本を信じたからこそ、ここまで大きくなったフットウェアブランド|NIKE|。
深い歴史から、ロゴ・人気アイテムや年代の見極め方法まで徹底解説をします。
“JUST DO IT.”
全てのアスリートをサポートするブランドの歴史
創業者フィル・ナイトは、スローガン「JUST DO IT.」に特別な想いを込めている。
彼は「いかなるアスリートにとっても、最初の一歩を踏み出すことは決してやさしいことじゃない。実際に行動に移る、その小さな勇気こそJUST DO IT.なんだ。その勇気を持つ人々を、そしてそうなりたいと思う人々を、応援しサポートしていくのがわれわれの仕事なんだ」と説明している。
多くのアスリートをサポートし支持されたブランドはどうして生まれたのか?
そして、勝利の女神「ニケ(NIKE)」としてどう育っていったか?歴史を紐解きます。
|NIKE|の創始者フィル・ナイトは、オレゴン大学を卒業後スタンフォード大学のビジネススクールでMBA(経営学修士号)を取得。
スタンフォード大学時代に「日本のランニングシューズが世界を席巻すると予期し、それをビジネスにする」というアイデアを思いつき、1962年に日本に向かう。
元々目を付けていた鬼塚株式会社(現|ASICS|)と契約を取り付ける。
まだ大学を卒業したばかりのナイトは、「ブルーリボンスポーツ」社の代表という嘘をつき、50ドルの前払い金を払い、サンプルを送ってもらうよう約束を取り付ける。
1964年にアメリカの販売権を他の会社が主張した為、日本にまた向かう。
|ASICS|創業者鬼塚喜八郎と直接出会う機会を得る。
鬼塚はナイトの情熱的な姿に昔の自分を思い出し、ブルーリボンスポーツ社のアメリカでの販売権を認めた。
|Onitsuka TIGER|からサンプルが届くと、大学時代の恩師ビル・バウワーマンに送る。
このバウワーマンは、大学のコーチだけでなく1964年の東京オリンピックのコーチとして参加するなど、陸上競技界では有名人。
さらに後の1966年には「JOGGING(ジョギング)」という健康維持のためのランニングのハウツー本を発売するなど、「競技者」のためだけではなく「一般人」にもランニングを浸透させる第一人者だった。
そのバウワーマンのアイデアをオニツカが1967年に「TIGER CORTEZ」として製品化し、大ヒットする。
ビル・バウワーマンのおかげもあり、アメリカでの|TIGER|の売上は調子が良く、ブルーリボンスポーツの取扱高が大きくなっていた。
オニツカはその好調さを見て、ブルーリボンスポーツに買収を提案する。
その提案を断ると契約を打ち切られると察したフィル・ナイトは、結論を長引かせて自分たちでブランドを始める事を画策する。
「ファルコン」や「ディメンション・シックス」などの候補の中から勝利の女神を意味する「NIKE」に決定する。
このような経緯から、当時人気だった「コルテッツ」は|Onitsuka TIGER|と|NIKE|のどちらともで販売されていた。
シューズブランドのサイドにはそのブランドを象徴する「ロゴ」が描かれていた。
|adidas|なら「3本線」だし、|PUMA|なら「フォームストライプ」と呼ばれる流線型のラインだ。
ナイトが臨時講師をしていたポートランド州立大学の生徒だった、キャロライン・デヴィットソンにお願いすることにする。2週間後に製作した初期案から手直ししてもらい、数週間で「SWOOSH(「勢いよく動く」という意味)」と呼ばれるロゴが完成する。
しかし、当時ナイト自身は気に入っていなかったが、デザインの納期もあったため、仕方なくこのデザインに決定。
キャロラインに謝礼として35ドルを手渡す。
その当時から、ブランド名やロゴには多額なお金を出してコンサル会社に製作させることが多かったが、今でも|NIKE|の象徴である「SWOOSH」はわずか1ヶ月、35ドルで出来上がったのである。
実は、この話には続きがある。
その後キャロラインは|NIKE|で働くことになる。
1982年のある日、ナイトに呼び出されると、100万ドル相当の|NIKE|の株券と「SWOOSH」デザインのキントダイヤモンドのリングをプレゼントされた。
10年経ってやっと気に入った?のかは分かりませんが、粋なプレゼントにキャロラインは大変喜んだという。
そもそも新ブランド|NIKE |を立ち上げるきっかけになったのはオニツカによる圧力だったが、日商岩井という日系企業(現・双日株式会社)が日本の靴工場を紹介してくれた事から本格的に始動する。
その後、オニツカと裁判になるが、オニツカ側の証言に問題があり、商標部分での勝訴。「コルテッツ」は|NIKE|が使えるようになり、損害賠償も40万ドル(日本円で約1億2,000万円)受け取る事に。
勝訴したが、その後も急成長する|NIKE |は、成長する企業にはありがちなキャッシュフローの問題で倒産の危機を迎える。
その時も、日商岩井が借金を肩代わりしてくれ、なんとか存続する事となる。
これ以降の日商岩井との付き合いは、1977年から日本での販売を開始し、1981年に合弁会社としてナイキジャパンを設立するなど、長い付き合いとなる。
1984年にシカゴ・ブルズに内定していたマイケル・ジョーダンが、ロサンゼルス五輪でチーム得点王となり母国の金メダル獲得に大貢献した。
そこで、各シューズブランドはジョーダンを囲い込もうとしていた。
ノースカロライナ大学時代、大学が|CONVERSE|と契約していたため、試合では「プロレザー」を着用していた。しかし、練習では|adidas|を履くほど好きだったため、プロでは|adidas|との契約を考えていた。
しかし、ジョーダンを一番に考えていたのは契約人数を減らし価値ある選手に絞ろうとしていた|NIKE|である。
|NIKE|はジョーダンの為に「AIR JORDAN」という特別なシューズとアパレルを製作し、破格の契約金とロイヤルティ制度で用意したことで契約を結ぶ。
|NIKE|が用意した最初のシューズは、シカゴ・ブルズカラー黒×赤の「AIR JORDAN 1」だった。
そのシューズは、当時の「ユニフォームの統一性に関する規約」違反から罰金を受けることとなる。
しかし、「罰金を払い続けた」とか色々な憶測が飛ぶが、その後は白×赤×黑の「AIR JORDAN 1」を着用している。
そんな別名「悪魔のシューズ」とも呼ばれるシューズを愛したのはマイケル・ジョーダンだけでは無く、スケーターからも愛されていた。
なぜ愛されたか?
レザーで丈夫に作られていただけではなく、マイケル・ジョーダンの要望もありヒール側しかエアが入っておらず、つま先側のソールは薄く作られていた。それが多くのスケーターから愛された理由で、マーク・ゴンザレスなども愛用していた。
マーク・ゴンザレス【アーティスト・プロスケーター】
1968年カリフォルニア州サウスゲートで生まれたメキシコ系アメリカ人。
ストリートスケートボード創成期にシーンを牽引し、|VISION|からサポートを受けるが、1988年に自身のブランド|Blind|を立ち上げる。その後も多くのブランドを立ち上げるだけでなく、アーティストとしても活動し、|adidas|や|Supreme|、|UNIQLO|などで自分のデザインしたアイテムをリリース。自身のブランド|Mark Gonzales|でも自身がデザインしたアパレルもリリースしている。
|asics|の輸入代理店から始まり、
世界一のスニーカーブランドになるまでの軌跡
'1962
フィル・ナイトは日本のシューズが世界に通用する可能性を感じていた。
卒業旅行で日本に行き、|asics|鬼塚喜八郎と出会い、販売権取得。
'1964
|NIKE|の前身であるブルーリボンスポーツ社をフィル・ナイトが創業。
オレゴン大学の恩師ビル・バウワーマンと共同で設立する。
'1967
ビル・バウワーマンが、ケニー・ムーアのための特製シューズとして制作。
ムーアがトレーニング中に骨折をした事がきっかけだと言う。
'1971
オニツカとの契約更新問題もあり、自社のブランドを設立。
'1974
「コルテッツ」の商標権でナイキが勝訴した。
元々は契約の問題で裁判を行っていたが、
開発したのは|NIKE|である事が証明された為、商標権で勝訴。
'1982
ナイキエアを搭載した初めてのシューズ「AIR FORCE 1」発売。
当時の最新鋭の機能を備えており、長期に渡って人気を生んだ。
'1984
マイケル・ジョーダンのシグネーチャーモデル「AIR JORDAN 1」発売。
当時新人だったにも関わらず専門モデルが発売され、一躍人気に。
'1985
カレッジカラープログラム販売戦略として「DUNK」発売。
NCAA(全米大学体育協会)バスケットボールリーグに参加しているチーム
のシューズ・アパレルをカラー統一し、販売するというもの。
'1995
人気シリーズの中で特に人気があった「AIR MAX 95」発売。
日本に入ってきた時には、その見た目から「イモムシ」と揶揄されたが、
木村拓哉などの著名人が履くことにより、大ヒット。
「エアマックス狩り」という言葉が認知されるほどの社会現象に。
'1999
1997年、東南アジア工場における問題が明らかになり、不買運動に発展。
児童労働、低賃金労働、長時間労働、セクハラ、強制労働などが原因。
世界の労働環境の調査を行い、環境の改善に対して取り組める団体を発足。
'2002
2000年にスケートボード用にナイキダンクロープロBを発売。
その製作チームがそのまま|NIKE SB|を立ち上げる。
「JUST DO IT.」
全てのアスリートをサポートするアイテムたち
アスリート達を応援・サポートする為に生み出されたアイテムたち。
しかし、アスリートだけではなく、ストリートからも支持を受ける。
その代表的なアイテム達を紹介する。
参考価格 ¥15,800-
1969年に発売したトレーニングシューズ。
このコルテッツは、アメリカでオニツカ製品の販売をしていた|NIKE|の前身であるブルーリボンスポーツ(BRS)社が生み出した。BRS社の共同創業者でもあるビル・バウワーマン氏の試行錯誤によって完成。軽量でクッション性に優れる。
1971年にBRS社とオニツカは決別。同年6月には「SWOOSH スウッシュ」と呼ばれるロゴマークが配されたシューズがナイキ名義で販売。一時期、オニツカ製とナイキ製のふたつのコルテッツが市場に存在していた。1974年BRS社が「コルテッツ」の商標使用権を得るかたちで勝訴。オニツカは、「コルセア」という名に変更した。
参考価格 ¥11,550-
1982年に発売した「ナイキエア」を搭載した初めてのバスケットボールシューズ。
デザイナーはブルース・キルゴア。 ミッドソールに備えたフルレングスのエアクッションや、アウトソールのピボットポイント、フィッティングを高めるためのアンクルストラップなど最新鋭の機能を備えていた。
発売当初はHiカットの展開だったが、1年後にLowカットを発売。1986年にAIR FORCE2が発売し、それに伴い生産終了。
だが、復活を望む声が多く、ボルチモア地区にある3つのシューズショップ「チャーリー・ルドー・スポーツ」「ダウンタウン・ロッカールーム」「シンデレラ・シューズ」がナイキ本社に直訴。
1カラーあたり1200足販売することを条件に、この3店舗 (後に「3アミーゴス」と呼ばれる)限定で再発売し、噂を聞きつけたファンが殺到。1988年に最初のオリジナルモデルが復刻。そして1990年代からは、ボルチモア地区以外でも再発売。
1994年にファッション性を重視したMidカットが発売。2001年に様々な新色が世界的に展開し、2002年にはヒップホップ・ミュージシャンのネリーが、「エア・フォース・ワンズ」を発表。その影響もあり、2000年代中頃に大ヒットし、市場に浸透した。
参考価格 ¥15,400-
1985年に発売したマイケル・ジョーダンのシグネチャーモデル。当時、ジョーダンは大学生中心のロサンゼルスオリンピックで活躍し、シカゴ・ブルズに入団。大学時代は|CONVERSE|と契約しており、本人は|adidas|フリークであったが、「AIR JORDAN」のアイデアと5年総額250万ドルの破格の条件で契約。
また、当時のユニフォーム規則は白以外禁止であったが、ブルズカラーのシューズを履き続け、毎試合5000ドルの罰金を|NIKE|が払い続けた。 また、日本ではマイケル・ジョーダンの認知が低かった為、発売当初は売れなかった。だが、DUNKと共にスケーターに愛されるようになり、市場で旋風を巻き起こす。
参考価格 ¥13,200-
1985年に発売したバスケットボールシューズ。当時、マイケル・ジョーダンの活躍などでNCAA(全米大学体育協会)バスケットボールリーグが人気を席巻していた。|NIKE|はカレッジカラープログラムを販売戦略を企画。それは、カレッジリーグの選手が着用するシューズやアパレルを各大学のスクールカラーで統一し、それぞれカラー別に製品をパッケージで販売するというもの。その主力機種を務めたのがダンク。
あくまで大学リーグ用のシューズだった為、一般的な認知は低かった。元々、耐久性の高いバスケットシューズをスケーターは愛用していたが、2トーンカラーの鮮やかな配色のダンクにも目をつけた。1990年代には生産終了しており、スケーターだけでなくコレクターも目をつけ、価格が高騰した。
1999年にファン待望の復刻がされ、その後に|NIKE SB|でもダンクが発売され、多くのスケーターに愛される。
「JUST DO IT.」
全ての人を満足させるブランドライン
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