スニーカー年表vol.4|同じ時代、同じ場所で生まれた。NEW BALANCEとCONVERSE誕生物語。
昨今、街を見渡せば誰もが履いているスニーカー。
しかし、その背景には100年以上にわたる深い歴史がある。
もともとはアスリートのための運動靴として誕生し、スポーツの現場で磨かれた機能性が、やがてファッションとして昇華。ストリートの若者たちに受け入れられた。いまや市場に流通する靴の7割以上がスニーカーだというデータもある。1900年代初頭にはほとんど誰も履いておらず、2000年代初頭でさえ3割台にとどまっていたことを考えると、その爆発的な広がりは驚異的だ。
とりわけ日本人のスニーカー愛は強烈で、その熱狂ぶりは「スニーカーの中心地がTOKYOになった」と称されるほど。
なぜ人々はこれほどまでにスニーカーに惹かれるのか。
そして、その熱狂はこれからも続くのだろうか。
連載第4回となる今回は、同じ時代・同じ土地で生まれた2つのブランドが、どのようにスポーツとファッションの両面で影響を及ぼし、世界中の人々に愛される存在となったのかを紐解いていく。
スニーカー年表
Chronology of SNEAKER.
vol.01
vol.02
vol.03
vol.04
vol.05
vol.06
vol.07
スニーカーの歴史は100年以上にわたり、数え切れないほどのブランドが生まれ、そして姿を消してきた。しかし、その長い歴史の中で、黎明期から現在に至るまで影響力を持ち続けるブランドがある。それが|NEW BALANCE ニューバランス|と|CONVERSE コンバース|だ。
驚くべきことに、両ブランドは同じ時代、同じ場所――アメリカ・マサチューセッツ州で誕生し、それぞれが独自のポジションを確立してきた。しかも「誕生の理由」がまったく異なる点も興味深い。
NEW BALANCEは医療用具からスタート。足の形や歩行に悩む人々をサポートする靴づくりから始まり、その機能性がやがてランニングやスポーツ用シューズへと発展していった。
一方のCONVERSEは、地域の人々の生活を支えるためのラバーシューズメーカーとして創業。その後、誕生したばかりのスポーツ「バスケットボール」に目を向け、専用シューズ「オールスター」を展開することで、世界的なスニーカーブランドへと成長を遂げる。
今回は、この二大ブランドの誕生の背景と、なぜ長きにわたりスニーカーカルチャーの中心であり続けるのか、そのルーツを紐解いていく。
ニワトリがヒント?NEW BALANCE誕生の物語
スニーカー史における伝説のブランド、NEW BALANCE(ニューバランス)。そのルーツは、意外なところにあった――庭を歩くニワトリだ。
イギリス(アイルランド)からの移民、ウィリアム・J・ライリーは、庭のニワトリが三つのかぎ爪でバランスよく立つ姿に目を留める。「このバランスを人間の足にも応用できないか?」――ライリーはひらめく。
この着想を靴に落とし込み、三角形を描く3点サポート設計のインソールを開発。優れた安定性とバランスをもたらすこの「アーチサポートインソール」は、扁平足やハイアーチなど、足に悩みを抱える人々を救う矯正靴として製品化される。こうして、アーチを支える会社として「ニューバランス・アーチ」はスタートを切った。
しかし、ライリーの目標はそれだけではなかった。ニワトリから得たヒントをもとに、人々に新しい感覚(NEW BALANCE)を届けること――それがブランド名の由来でもある。
1927年、ライリーは優秀な委託販売者アーサー・ホールを迎え、ビジネスは一気に拡大。1938年にはランニングシューズのオーダーメイド製作にも挑戦するなど、革新的な試みを次々と打ち出していく。
こうして、ニューバランスは単なる矯正靴メーカーから、機能性と快適性を極めたランニングシューズブランドへと進化し、後に世界的なスニーカーカルチャーの礎を築くことになるのだ。
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|CONVERSE|
ゴムの父の意志を継いでスタート。
1892年、アメリカの靴産業は大きな転機を迎える。
当時、米国各地には大小さまざまなゴム製造会社が存在していたが、その中でも注目すべきは Goodyear’s Metallic Rubber Shoe Company だ。
この会社は、ゴムの歴史を語る上で欠かせない「バルカナイズ製法」の発明者、チャールズ・グッドイヤーの名を冠していた。
この技術は、ゴムを熱と硫黄で硬化させ、強度や耐久性を飛躍的に高めるもの。それまで軟弱で使い物にならなかった天然ゴムを、一気に産業利用可能な素材へと変貌させた。雨具や馬車のタイヤ、そして靴までもが、彼の発明によって実用品として普及していったのだ。
そんな背景を持つゴム会社を含む 9つの小規模メーカー がひとつに統合され、新たに誕生したのが U.S. Rubber Company(ユー・エス・ラバー) である。後に「CONVERSE」や「Keds」といった名だたるブランドが登場するアメリカン・スニーカー文化の土台を築いた存在でもある。
なお、グッドイヤーその人については、また別の記事で詳しく紹介している。彼の挑戦と失敗の連続が、いかにして近代スニーカーの誕生を導いたのか――その物語は、まさに産業史そのものである。
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U.S. Rubberで会計係を務めていた ジョージ・ルイス は、息子トレイシーとともに1898年に独立。
「ビーコン・フォールズ・シュー・カンパニー」を設立する。
ラバーブーツやラバーシューズを次々と生み出し、雇用を拡大。
小さな町は一気に活気づき、人口を押し上げるほどの影響を与えた。
その会社でマネージャーを務めていたのが、後に歴史を動かす男──
マーキス・M・コンバース である。
やがて彼は独立し、マサチューセッツ州に「コンバース・ラバー・シュー・カンパニー」を設立。
雪と雨に覆われる東海岸北部という土地柄に着目し、
悪天候でも働けるラバーシューズを開発した。
間接的にではあるが、彼の挑戦は チャールズ・グッドイヤーの精神 を継ぐものだった。
ゴムを通じて暮らしを支え、人々を豊かにしていく。
こうして誕生した |CONVERSE コンバース| のラバーシューズは、
地元で圧倒的な支持を集め、やがてアメリカを代表する存在へと成長していく。
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「スニーカー」という言葉を広めたブランド ― Keds
1918年、CONVERSEとも深い関わりを持つブランド、|keds ケッズ|が誕生する。
その背景には、当時アメリカ最大規模を誇ったゴム会社 U.S. Rubber の存在があった。30以上も乱立していたシューズブランドをひとつに統合し、新たに打ち出されたのがこのKedsである。
Kedsのプロモーションこそが、世に言う「スニーカー誕生の瞬間」とされている。実際にシューズそのものは1895年頃から存在していたが、「スニーカー」という言葉を世に広めたのはこのKedsだった。
Kedsのプロモーションこそが、世に言う「スニーカー誕生の瞬間」とされている。
実際にシューズそのものは1895年頃から存在していたが、「スニーカー」という言葉を世に広めたのはこのKedsだった。
ポイントは、ゴム底の特性を活かした切り口。彼らは「静かに忍びよる(sneak)」というフレーズを用い、シューズを単なるスポーツ用品ではなく、新しいライフスタイルアイテムとして打ち出したのだ。
実際には1887年の段階で「スニーカー」という言葉が使われていたという説もあり、Kedsが名付け親というわけではない。しかし、その名称を大衆に根付かせたのは間違いなくKedsだ。
当時のスニーカー市場では、NEW BALANCEの営業マンが1足5ドルで販売していたのに対し、Kedsの定番モデル CHAMPION はわずか1ドル。さらに広告コピーにはこう記されていた。
“The first shoe with a soft rubber sole, so comfortable & quiet you could ‘sneak’ up on your boyfriend.”
柔らかいラバーソールを備えた最初の靴。快適で静かすぎて、ボーイフレンドに忍び寄れるほど。
この挑発的でユーモラスなコピーは、ウィメンズシューズの文化までも変化させた。
バッシュの原点は「雪の日の靴」だった。
ALLSTAR誕生
|CONVERSE|は創業当初、雪国で活躍するラバーシューズを主力商品としていた。
しかし冬季需要に左右されるため、通年で売れる商品が必要だった。そこで目をつけたのが、当時まだ新しいスポーツだった「バスケットボール」だ。
バスケットボールは、1891年にジェームズ・ネイスミスによって誕生した。それについては、別記事を是非確認して欲しい。
バスケットボールは1891年、マサチューセッツ州スプリングフィールドの体育教師ジェームズ・ネイスミスによって考案された競技。
屋内で行われ、俊敏な動きや急なストップを求められることから、適したシューズはまだ存在していなかった。|CONVERSE|はこの点に着目し、「滑らない靴」をテーマに研究を重ね、文字通りの「NON-SKID(ノンスキッド)」。
そして改良を重ね、1917年に歴史的名作ALL STARが誕生する。
このシューズに魅せられた男がいた。プロバスケットボールプレイヤー チャック・テイラーだ。
チャック・テイラー【バスケット選手】
1901年にアメリカ・インディアナ州で生まれ、バスケットボールのセミプロ選手としてプレー。その後、|CONVERSE|と契約し、伝説的な営業マンとして「ALL STAR」を世界一売れたスニーカーにまで育てた。
チャールズ・“チャック”・テイラーは、1901年インディアナ州生まれ。バスケットボールのセミプロ選手としてキャリアをスタートさせるが、彼の本当の才能が開花するのは「選手」としてではなく、「伝道師」としてだった。
1921年、チャックはコンバース社と契約。役割はアドバイザー兼セールスマンだった。当時のバスケットボールシューズは、今のように“自然に売れる”ものではなかった。販売に苦戦するチャックに、ある日母親が投げかけた一言が転機となる。
「シューズを買うのは誰なの?」
選手ではなく、指導者や学校関係者が購買の鍵を握っていると気づいた彼は、全米を巡ってバスケットボールのクリニックや講習会を開き、コーチや教育者に直接アプローチをかけ始める。
さらに1920年代半ばからは、自ら編集に携わった雑誌「バスケットボール年鑑」を刊行。戦術解説や選手名鑑、試合記録などを網羅したこの雑誌は、まさに当時の“バスケ・バイブル”だった。ここに掲載されることは選手・チームにとって大きな名誉であり、掲載を目指す彼らはこぞってコンバースを履いた。こうして「バッシュ=コンバース」という揺るぎない図式が生まれていく。
その功績はやがて会社からも認められ、1946年には「CONVERSE ALL STAR」のアンクルパッチに、彼の筆記体サインが刻まれる。商品名として人名が冠されるのは当時としては異例中の異例。以降「チャックテイラー・オールスター」と呼ばれるようになり、世界一売れたスニーカーへと成長していった。
チャック・テイラーはただのセールスマンではない。彼はスポーツカルチャーを育て、シューズを超えた価値を作り出した“マーケティングの先駆者”だった。
アーサー・ホール
ニューバランスを世界に押し上げた敏腕セールスマン
1927年、ニューバランスの創業者ウィリアム・J・ライリーは、一人の敏腕セールスマン、アーサー・ホールを雇う。彼の役割は単純だが、ブランドの未来を左右する重要な任務だった──「人々にニューバランスの価値を伝え、売ること」。
アーサーはただの営業マンではなかった。靴の構造やアーチサポートの重要性を理解し、医療や教育現場、スポーツコミュニティを駆け回る。彼のセールストークは「科学に裏打ちされた快適さ」と「人の生活を支える靴」という2本の軸で展開され、顧客の信頼を一気に獲得していく。
1938年には、ランニングシューズのオーダーメイド製作がスタート。アーサーの手腕で、ニューバランスは単なる矯正靴メーカーから、アスリートやランナーの支持を集めるスポーツブランドへと進化。彼の行動が、後のニューバランスの世界的成功の基盤を築いたのだ。
雑誌的視点で言えば、アーサー・ホールは「裏方のヒーロー」。名前は表に出ないかもしれないが、彼の足跡は今も世界中のランナーたちの足元に刻まれている。
|NEW BALANCE ニューバランス|と|CONVERSE コンバース|──。同じ時代、同じマサチューセッツ州で誕生したこの2つのブランド。
どちらも、ブランドの価値を理解し、世の中に広めることに全力を注いだ敏腕セールスマンの存在があった。彼らの手腕が、ニューバランスとコンバースを単なる靴メーカーから、世界中のスニーカーファンを熱狂させる存在へと押し上げたのだ。
意外にも共通点の多い2ブランド。この後もスニーカーの歴史を彩り、世界中のストリートカルチャーに影響を与え続ける。
ただ、これもまた別のお話。
次回は、スニーカー 界最大の兄弟喧嘩。|adidas アディダス|と|PUMA プーマ|の誕生物語。
