何を着て何を履いたか?|スケートボードファッションの歴史【なんちゃってスケーター卒業】
SKATEBOARDING IS NOT A CR
超ネットワーク社会と言われている昨今、検索窓に数文字打てば無限の情報が引き出せる。
それ以前は、人々はどうやって情報を引き出し、アップデートしていたか?
よくよく考えると、今と全く変わらないのだ。
と言うのは、メディアが変わってはいるものの、誰かが語って、書いて、撮ったものが情報化されて、私たちに届く。
その情報を自分たちの身につけるものに落とし込んでいく。こうやって流行(ファッション)が出来上がる。
その最前線を、30年以上走っている「藤原ヒロシ」という人物をご存知だろうか?
彼と時代を同じくした人達であれば、どういった経歴であるかも含め理解している事だと思う。
ただ、若い読者であれば、「名前は知っているものの…」や「知らないなー」という状態だと思う。
インターネット隆盛前夜から、世界の最先端を編集して、お届けしていた人物「藤原ヒロシ」を全三編で紹介する。
今回は、2編目としてファッションへの出会いと裏原系誕生前夜までを解説します。
人というのは、環境や周りの人間、そして情報が作っていく。
その中で、本人の編集能力次第で、それぞれの「自分」が出来上がっていく。
藤原ヒロシは、音楽で培った編集能力、そして不思議な魅力を使って、最高な環境と情報を手に入れていく。
その中で、ファッションという枠組みで影響を与えた人物としては、「大川ひとみ」「マルコム・マクラーレン」「ショーン・ステューシー」だろう。
この3人との出会いを起点に「キング・オブ・ストリート」とも呼ばれるまでに至った経緯を解説します。
藤原少年は、1982年にセツ・モードセミナーに入学し、3週間で中退。
藤原少年としては、東京に出る大義名分として入っただけで、そもそもすぐ辞める予定だったとか。
その後は、東京で生活しながら「ツバキハウス」などに行き、ネットワークを広げていた。
ツバキハウス 【ディスコ】
アメリカ式ディスコの草分け的存在。
ファッションデザイナーのコシノ・ジュンコや三宅一生、高田賢三も通っていたこともあり、ファッション業界の人が多く通っていた。
そこで|MILK ミルク|のデザイナー大川ひとみに出会う。
大川ひとみ 【ファッションデザイナー】
1970年に|MILK|、1974年に|MILK BOY|という2つのブランド・お店を原宿で立ち上げる。
独特な洋服・お店のスタイルが評判を呼び、ジョン・レノンやデヴィッド・ボウイなどのセレブも立ち寄るほどの人気店に。
大川の性格もあって、出会うとすぐ藤原少年のことを気に入り、毎日のように遊ぶこととなる。
その中で、大川が色々な人を紹介し、藤原少年の交友関係がどんどん広がっていく。
そんな中、ロンドンナイトで開催されたファッションコンテストに出場する。
ロンドンナイト 【イベント】
1981年に「ツバキハウス」というディスコでスタートしたロックイベント。
発起人となった大貫憲章は音楽評論家で当時無名だった「クイーン」をいち早く日本に紹介し、ロックDJとしても活動。
ツバキハウスの特徴から文化服装学院などのファッション関係の人も多かったが、無名時代のブルーハーツや布袋寅泰なども通っていたと言われるイベント。
大川ひとみが審査員長を務めていた為、半ば出来レース的に優勝し、賞品としてロンドン行きのチケットを手に入れる。
それにより、藤原少年は憧れの地・ロンドンを訪れ、この旅が「最先端を編集する男・藤原ヒロシ」を作る事となる。
ロンドンに行くことになった藤原少年は、何もツテが無く切り拓いていくしかない。
という状況を作らないのが、彼の行動力と戦略思考力が高いところである。
藤原少年はマルコム・マクラーレンとヴィヴィアン・ウエストウッドの連絡先と会う約束を取り付けていたのである。
マルコム・マクラーレン【マネージャー、デザイナー】
1946年生まれ、美大生時代にヴィヴィアン・ウェストウッドと出会い、子どもを授かる。
1971年にヴィヴィアンと共に「Let It Rock」を開店。1974年「SEX」、1976年に「Seditionaries」、1979年に「Worlds End」に店名を変更。
1975年にはお店の従業員や常連客をパンクバンド「セックスピストルズ」に仕立て上げ、本人はマネージャーとなる。
マルコムとヴィヴィアンは、セックスピストルズが大好きだった藤原少年からすると、憧れの人だ。
2人は当時やっていたブティックのオリジナルブランド|Worlds End ワールズエンド|のショーで来日していた。
ひょんな事から藤原少年はそのショーに出る事となり、ロンドンに行く事を伝えると自宅の連絡先を教えてもらえたのだ。
ロンドンの自宅に行くと、ワインを飲みながら色々な話をする事となる。この時、マルコムと話した内容が藤原少年を「最先端の男」とすることに。
マルコムはファッションから音楽に進出したが、ヒロシは音楽からファッションに進出する。
逆のアプローチではあるもののマルコムからは多大な影響を受けた。
例えば、|GOOD ENOUGH|のTシャツには袖にタグを付けるが、それは|Seditionaries|にも長いタグが付いているデザインが好きで参考にした。
左がヴィヴィアン・ウエストウッド、右は若かりし頃の藤原ヒロシ。
左がマルコム・マクラーレンと、右がヴィヴィアン・ウエストウッド。
ロンドンでマルコムと出会い、マルコムにニューヨーク行きを勧められ、案内人も紹介してもらう。
マルコムも1974年に渡米し、「ニューヨーク・ドールズ」というバンドのマネージャーを務めるが、その後解散。
帰英後、「セックス・ピストルズ」をプロデュースする。マルコムもニューヨークに影響を受けていたのである。
藤原少年は、ニューヨークのDJ現場では「リミックス」を行なっており、それを日本に持ち込んだ。
その後、マルコムの影響で興味を持ったHIPHOPを日本で広めたことにより、音楽業界で「最先端の男」として認められる。
そうすることで、雑誌「宝島」にも登場するようになり、1987年には「LAST ORGY」という連載を開始。
宝島 【雑誌】
1973年に創刊した音楽&カルチャー雑誌。
当時はストリートファッションの特集やロックバンド特集など、当時の若者のバイブルとされていた。
LAST ORGY 【連載】
1987年7月号「宝島」でスタートしたタイニー・パンクスによる「何でもアリの超最先端事情通信」の連載。
この連載では、音楽だけで無く、ファッションのことも紹介していた。
そんな中、|STUSSY|創業者ショーン・ステューシーのインタビューをする事になり、初めて対面する事に。
左からショーン・ステューシーと、藤原ヒロシ、|A BATHING APE|のNIGO®︎。
藤原ヒロシは1985年あたりから、ビースティ・ボーイズなどの影響もあり、|STUSSY|の服には出会っており、雑誌でも紹介していた。
インタビューを経て、ヒロシのことを気に入ったショーンは、ヒロシをアジア人として初めて「IST」のメンバーに入れる。
IST 【チーム名】
ISTとは「INTERNATONAL STUSSY TRIBE(国際的なSTUSSY族)」の略で「仲間」という意味。
ミュージシャン、スケーター、DJ、アーティストなど互いによく似た感性の持ち主を「IST」と呼んだ。無償で服をプレゼントして愛用してもらう。それらを見た若者が|STUSSY|を「着たい」と思わせるコトを期待したマーケティング手法でもある。
この|STUSSY|に藤原ヒロシは多分に影響を受けることとなる。
まず、|STUSSY|とは何か?
ショーンがサーフィンをしていたのでサーフブランドとのカテゴライズされることもあるが、彼がたまたまサーファーでシェイパーだったため、そう思われただけ。
サーフィンやスケートボード、そして音楽などの文化を取り込み、リミックスして洋服に落とし込んだ。結果「ストリートブランド」と呼ばれるようになった。
|STUSSY|より前にもストリートブランドと呼ばれるものもあるにはあったが、1番ヒットし1番イケていたから「元祖ストリートブランド」と今でも呼ばれている。
そして、ISTを使ったマーケティング手法。
これも、スポーツシューズブランドでは多く用いられていたが、アパレルブランドでは珍しかった。
それらの影響を受けて、藤原ヒロシは「裏原系」を誕生させる。
全てを壊し創造する男
トップを走るまでの軌跡
'1964
1964年三重県伊勢市に誕生。
父は競輪選手の藤原武。3人兄弟の末っ子として育つ。
'1982
ファッションコンテストの副賞でロンドンへ。
マルコム・マクラーレンやヴィヴィアン・ウエストウッド等と交流。
18歳で世界のトップと交流した事がその後の活動につながる。
'1983
マルコム・マクラーレンの紹介で、ニューヨークのDJ現場を体感。
当時のDJは「選曲・曲順を工夫して音楽を流す」という認識だったが、
色々な曲やテクニック(スクラッチ等)を駆使して、曲をアレンジした。
'1985
高木完とヒップホップグループ「タイニーパンクス」を結成。
その後、いとうせいこうと「建設的」でデビュー。
いとうとは、世界初の日本語ラップを行なったとも言われる。
'1988
日本初のクラブ・ミュージックレーベル「メジャー・フォース」を発足。
中西俊夫、工藤昌之(K.U.D.O)、屋敷豪太(GOTA)の3人と、
タイニーパンクスの2人の計5人のプロデューサーからなるレーベル。
'1990
小泉今日子17枚目のアルバム「No.17(じゅうななばん)」プロデュース。
写真集にスタイリングで参加した事がきっかけで交流スタート。
創立者は、藤原ヒロシ、スケートシング、岩井徹、水継の4人。
当時、服本来を見て欲しい事から「藤原ヒロシ」の名前は伏せていた。
'1995
日本で初めてのコラボ商品と言われる。
タンカーを使ってレコードバッグを作り、数量限定で販売。
これを機に|PORTER ポーター|は全国区となり、
|HEAD PORTER ヘッドポーター|に繋がっていく。
'1997
店内の1階がギャラリーで、地下がショップという作りだった。
セレクトする商品は、|NIKE|の限定商品から、
|GOOD ENOUGH|や|FINNES |等のオリジナルブランド、
|A BATHING APE |や|UNDER COVER|の別注品等。
1998年には|HEAD PORTER|を1階で販売開始。
1999年12月人気絶頂の中閉店。
'1998
ショップ「Gimme5」マイケル・コッペルマンを通じて知り合う。
クラプトンは知り合う前から|GOOD ENOUGH|を購入してたとか。
1998年にアメリカンツアー・スタッフ用コーチジャケットを作成。
ジャケットには|GOOD ENOUGH|のタグが付いている。
2001年にもワールド・ツアー用フィールドジャケットを作成。
ジャケットには|ELECTRIC COTTAGE|のタグが付いている。
'2002
'2005
'2006
4曲入りマキシ・シングル「カプチーノ」をリリース。タイトル曲は、
ヴォーカル・作詞を松任谷由実、作曲をヒロシとエリック・クラプトン。
'2007
|SOPH.|の清永浩文とスーツを着る人向けにデザインする。
'2016
|Louis Vuitton|ディレクターのキム・ジョーンズと親交があり、
藤原ヒロシがやっていた|Flagment Design|とのコラボ商品を、
伊勢丹新宿店メンズ館ポップアップストアで発売。
'2018
銀座ソニーパーク地下1階でコンビニをコンセプトにしたショップ。
実際に使用されている什器を用いて”リアルなコンビニ”を演出しながら、
藤原ならではのユーモアを取り入れたグッズを多数展開。
ここまでが、「裏原宿系ファッション」の誕生前夜。
次回は裏原系誕生を、詳しく説明する。
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SKATEBOARDING IS NOT A CR
超ネットワーク社会と言われている昨今、検索窓に数文
1990年代。 東京都渋谷区の小さなエリアが、世界