SKATEBOARDING IS NOT A CRIME.
スケートボードは犯罪なんかじゃない

1980年代後半から90年代初頭。スケートボードが反社会行為と捉えられていた。
スケートボードブランドを中心としてこのようなメッセージが発信され、社会に向けてのメッセージとして多くのスケーターがステッカーを貼ってスケートをしていました。

それから2021年に行われた東京五輪には正式種目として初採用され、その時から考えると社会的地位も著しく向上した。
ただ、東京五輪で金メダルを獲得した堀米雄斗も「日本ではスケートボードのイメージがよくないので、自分が活躍することでそれを変えていきたい」と語るように、いまだに忌まわしく思われる存在ということは変わらない。

しかし、果たして社会的地位が向上することが良いことなのか?
スケートボードはパンクだからカッコ良く、メインストリームになるとダサくなるのでは無かろうか?

その答えを探すために歴史を紐解きます。

INDEX

SKATEBOARD
歴史

SKATEBOARDING IS NOT A CRIME
「パンクで創造的な遊び」の歴史

1940年代 -
「子どもの遊び」スケートボードの誕生

スケートボードは、1940年頃アメリカのカリフォルニア州で開発されたと言われている。
しかし、ローラーに板を付けただけのものだった事を考えると、戦闘機が世界中を飛んでいた時代だから各地域で同時多発的に作られていた可能性が高い。

1950年頃にROLLER DERBY社から「ローラーサーフィン」と呼ばれる木製の板につけた商品が発売される。
基本的には、子どもの遊び道具や移動の道具として使われるようになる。

1960年代に入るとトリックをする人が現れるが、滑走性能は低くかったため、くるくる回転したり、ハンドスタンドという板の上で逆立ちする曲芸のようなものだった。
トリックをする人がどんどん増えて競技としても成立されるようになり、1963年には世界初のスケートボード大会が開催される。

1965年にはアメリカの有名雑誌「LIFE」の表紙で、パティ・マクギーのハンドスタンドを披露。

これをきっかけに第一次スケートボードブームが起こる。

さらに1973年は、ウィール(タイヤ)がゴムからウレタン素材に変更される。
それによって、滑走性能が上がり、スラロームやダウンヒル競技も行われるようになった。

スラローム 【競技名】
ノルウェー語が語源で「緩やかな斜面につけたスキーの跡」という意味。色々な競技で見あられるが、コース内に置かれているパイロン(三角コーン)やポールの間を通ってタイムを競う競技。

ダウンヒル 【競技名】
文字通り、峠道などの下り坂を使ってスケートボードに乗って猛スピードで下りタイムを競う競技。

それによって「子どもの遊び道具」から「サーファー達の遊び道具」に昇華した。

波が無い日にサーファー達は遊び道具としてスケートボードをするようになる。そのため、当時は「スケーター = サーファー」で、スケーター独自の文化夜明け前である。

1970年代 -
Z-BOYSが作り出したスケーター文化とは?

サーファー達の遊び道具となり、スケートボードを作るサーファーが出てくる。

サーフボードのシェイパーであるリチャード・ノヴァックは、サーフィンの余った資材でスケートボードを製作を始める。
想定以上のニーズがあったため、創業した地名から取って|SANTA CRUZ|をスタートさせる。

SANTA CRUZ 【スケートボードブランド】
1973年にカリフォルニア州サンタクルーズにリチャード・ノヴァックによって発足。
元々は、サーフボードのシェイパーをしていたが余剰資材でスケートボードを販売すると、需要が多かったため、NHS社を創立。1975年にはアーティストのジム・フィリップスを起用し、「Screaming Hand」デザインが誕生し今でも|SANTA CRUZ|のアイコンとして愛されている。

スケートボード独自の文化として根付き始めたのは、またもカリフォルニア州。
ベニスビーチはサーファー達には有名なエリアで、そこにあるサーフショップがサーファーのチームを作る。

1975年、そこに所属していた15歳の少年だったステイシー・ペラルタ、トニー・アルバ、ジェイ・アダムズらが「Z-BOYS」というスケートボードチームを結成する。

彼らによって、サーフィンのスタイルでコンクリートを滑るスタイルが確立し、水を抜いたすり鉢状のプールでスケートボードをする「ボウル」などを生み出す。

Z-BOYS 【スケートボードチーム】
1971年にベニスビーチのサーフショップ「ジェフ・ホー・サーフボード&ゼファー・プロダクション」がゼファーサーフチームを作る。ショップの周辺を通称「ドッグタウン」と呼ばれ、他所から来たサーファーを締め出したりしていた。
1975年から、スケートチーム「Z-BOYS」が分離される。ステイシー・ペラルタ、トニーアルバ、ジェイ・アダムズ、ネイサン・プラット、アレンサーロの5人がオリジナルメンバーでスタートするが、その後すぐに6人が加わり11人のチームとなった。メンバーが活躍することで、数々の雑誌の表紙を飾るなど、ロックスターばりの人気を誇った。スタイルという概念を取り入れたり、水が入っていないプールでスケーティングを始めるなどパイオニアとしても有名に。その後、メンバーにそれぞれ大きなスポンサーが付いたことにより、1976年にあっけなく解散した。

型破りなライディングスタイルや、同年ベニスビーチで初の世界大会が開催され好成績を記録した事もあり、すぐに人気のチームとなる。

そのZ-BOYSは|VANS |の代名詞でもある「OFF THE WALL」という言葉を生み出したり、さらには「ERA」は彼らのアイデアが商品となった。

ステイシー・ペラルタは自身のスケートボードブランド|POWELL PERALTA|、トニー・アルバも|ALVA SKATEBOARDS|を立ち上げる。

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ステイシー・ペラルタ 【プロスケートボーダー】
1957年、カリフォルニア州ロサンゼルス生まれ。
11歳の時に、幼馴染であるトニー・アルバやジェイ・アダムズらとサーフィンとスケートボードを同時に始める。
1975年、スケートボードチーム「Z -BOYS」を結成するが、大人気となり翌年解散。1976年にはステイシーはプロスケーターランキング第一位となる。1978年にはジョージ・パウエルと共にスケートボードブランド|POWELL PERALTA|を立ち上げる。翌年にはスケートボードチーム「ボーンズ・ブリケイド」を立ち上げる。1992年から|POWELL PERALTA|を離れ、プロデューサーとして活動。2001年にはドキュメンタリー「Dogtown and Z-Boys」、2005年には映画「LOAD of DOGTOWN」の脚本も手がけた。

 
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トニー・アルバ 【プロスケートボーダー】
1957年、カリフォルニア州サンタモニカ生まれ。
11歳の時に、幼馴染であるステイシー・ペラルタやジェイ・アダムズらとサーフィンとスケートボードを同時に始める。1975年、スケートボードチーム「Z -BOYS」を結成するが、大人気となり翌年解散。
1978年にはスケートボードブランド|Alva skateboards|を立ち上げる。2005年には映画「LOAD of DOGTOWN」のスケートボードコーチとして製作に参加。

10代で自身のブランドを立ち上げられる所に、彼らの人気の高さと影響力の大きさがうかがえる。
特に、ステイシー・ペラルタの立ち上げた|POWELL PERALTA|はデッキだけでなく、アパレルも人気が高かった。

|POWELL PERALTA|のアパレルも若者からのニーズが高かった。現在でも、特に80sの「RIPPER」デザインのものが人気。「RIPPER」とは、別名「覗きボーンズ」と呼ばれ、スケートアート界の巨匠、VCJことヴァーノン・コートランド・ジョンソンによるグラフィック。

多くの人たちが彼らのファッションやスタイルに影響を受け、ひとつの文化として根付く事となる。

こうやってサーフィンがルーツとなり、Z-BOYSによってスケートボード独自の文化が生まれた。
まだサーフィンスタイルを陸上で楽しむ事が基本となっていたが、1980年代にスケートボードならではのストリート・スタイルが生まれる。
そして、サーフィンスタイルは「オールドスクール(古典的という意味)」と呼ばれるようになる。

1980年代 -
サーフィンとの離別、ストリートへの進出

1980年代になってもZ -BOYSの影響力は緩まることは無かった。いや、正確に言うとステイシー・ペラルタの勢いは緩まる事は無かった。
彼が立ち上げた「BONES BRIGATE」がスケートボードチーム史上最高のチームと呼ばれ、現在のスケートボードシーンを作り出したと言っても過言では無い。

彼らが開発したものは数え切れないが、なんと言っても「オーリー」の開発はサーフィンスタイルとの離別を意味した。

オーリー 【技名】
手を使わずにスケートボードを浮かせるトリック。
1979年にBONES BRIGADE所属のアラン・ゲルファンドがボウルにて「ノーグラブ・フロントサイドエア」を決め、彼のニックネームだった「オーリー」と呼ばれるようになる。フラット(平地)では、チームメイトのロドニー・ミューレンがアランの動きを研究し開発する。

BONES BRIGATEの2人によってオーリーが生み出され、スケーターはフラットでも飛ぶことを覚え、羽を手に入れたと言っても過言では無い。
そうすると、当時あまり無かったスケートパークで遊ばなくとも、日常にある障害物で遊ぶようになる。

街中で見る「オーリー」は重力に反発した動きで摩訶不思議だった。
それを知りたいという欲を満たすためにメディアが登場する。
1981年には雑誌「THRASHER MAGAZINE」が誕生し、1984年には動画メデイアとして、「The Bones Brigade Video Show」というスケートボードVHSがリリースされる。

The Bones Brigade Video Show 【スケートボードビデオ】
1984年に|POWELL PERALTA|からリリースされた世界初のスケートボードビデオ。スティーブ・キャバレロ、トニー・ホーク、ロドニー・ミューレンなどが出演。
VHSで発売され、300本販売予想だったが3万本を販売した。

さらにオーリーは、蹴り上げる時にシューズが摩耗するため、スケートボードシューズの販売増へ寄与するようになる。
この時代に|AIR WALK|や|Etnies|というスケートシューズブランドも登場。
しかし、|VANS|の停滞もあり、スケーターの間ではレザーで丈夫なバスケットシューズを履くことが多く、取り分け|NIKE|の「AIR JORDAN 1」が人気だった。
スケートボードはつま先側の感覚がとても重要で、「AIR JORDAN 1」はマイケル・ジョーダンの要望もありヒール側しかエアが入っておらず、つま先側のソールは薄く作られていた。それが多くのスケーターから愛された理由で、マーク・ゴンザレスなども愛用していた。

マーク・ゴンザレス【アーティスト・プロスケーター】
1968年カリフォルニア州サウスゲートで生まれたメキシコ系アメリカ人。
ストリートスケートボード創成期にシーンを牽引し、|VISION|からサポートを受けるが、1988年に自身のブランド|Blind|を立ち上げる。その後も多くのブランドを立ち上げるだけでなく、アーティストとしても活動し、|adidas|や|Supreme|、|UNIQLO|などで自分のデザインしたアイテムをリリース。自身のブランド|Mark Gonzales|でも自身がデザインしたアパレルもリリースしている。

また、この1980年代にはRun-D.M.C.などによりヒップホップが大流行した。

Run-D.M.C. 【HIPHOPアーティスト】
「オレンジ・クラッシュ」という名前で活動していたジェイソン・ミゼル、ジョゼフ・シモンズ(Run)、ダリル・マクダニエルズ(D.M.C.)は、1982年に「Run-D.M.C.」に改名する。
1984年に発売したファーストアルバム「Run-D.M.C.」はヒップホップアーティスト初のゴールド・ディスクを獲得。1986年にはエアロスミスのヒット曲「Walk This Way」をモチーフにした同名曲を発売。影響力は凄まじく、彼らが着用した|adidas|の「SUPER STAR」や|KANGOL|のハットはヒップホップのファッションアイテムとして定着している。

ヒップホップは囚人に影響受けた格好で、ベルト無しでサイズの合わないパンツを模した腰パンと紐無しの|adidas|の「SUPERSTAR」。
スケートボードの格好も動きやすく、大きいスケシューの姿が似ていた為、大きくストリートファッションとして認知されるようになる。
音楽とバスケットの間をスケートボードが取り持つ形で、その異文化融合が現在の形に近いストリートファッションの礎を生み出した。

それまで、ファッションはドレスアップする事が普通だったが、ストリートファッションの誕生でカジュアルダウンもオシャレすることと一般的にも認知されるようになる。

1990年代 -
ストリートの主役として存在感を示す

1990年代に入ると現在のスケートボードの礎がほぼ出来上がっていた。

その中でも一番影響を与えたのは、1989年のダブルテールデッキの誕生だ。
元々、スケートボードは一方向からの滑走を目的としていたため、滑走方向を「ノーズ」、後ろを「テール」と呼びテールにはキックと呼ばれる反りが入っていた。そのため、前後の形状が違うことが当たり前となっていたが、ストリートやフラットで回転した後に、逆側で滑走しそのままトリックを繋げる時に困るためどちらにもキックが入った「ダブルテールデッキ」が発売される。

そのダブルテールデッキが生まれて、フェイキー(メインスタンスとは逆に乗ること)トリックを多くの人がするようになる。

その中でも、BONES BRIGATEに所属していたスティーブ・キャバレロが開発したトリック「キャバレリアル」は今でも多くの人に愛されている。

スティーブ・キャバレロ 【プロスケートボーダー】
1964年アメリカ生まれ。
1979年のスケートボードの全米大会で5位となり、ステイシー・ペラルタから|POWELL PERALTA|のスポンサードを受けることとなる。1980年からプロになると、「CABARERIAL(通称:CAB)」というトリックを発明。1987年にはハーフパイプで11フィートを記録し当時の世界記録を樹立。1989年にアメリカ初のシグネチャーシューズ「CABARELLO」を発売。さらに、1992年には「HALF CAB」を発売し、世界的な人気を博す。

このトリック開発や独自のスタイルでスティーブ・キャバレロはトップの人気を誇るスケーターの1人になった。
そこで、シグネチャーシューズ「CABALLERO」を1989年に発売。
その後、Hiカットの「CABALLERO」の足首部分をカットして履くことが流行した。
そして、1992年にはMidカットにした「HALF CAB」を発売し、世界で最も有名なシグネチャースケートシューズとなる。

この1990年代にスケートファッション、いやストリートファッションは天下を取る。

意外にもそれは日本から始まる。
スケートボードをバックボーンに持つ、藤原ヒロシやSKATETHINGが|GOOD ENOUGH|を立ち上げる。

SKATE THING【デザイナー、イラストレーター】
本名中村晋一郎。グラフィックデザイナー。
1990年に本人の発案で藤原ヒロシと|GOOD ENOUGH|を立ち上げる。その後、NIGO®︎と|A BATHING APE|を始める。2011年には、|C.E|をスタート。

それをきっかけに日本で「裏原系ストリートファッション」が社会現象となるほど人気となる。
彼らの信者は、足元にはバスケットシューズかスケートシューズが履かれ、藤原ヒロシが雑誌で紹介した事で大人気となった|GRAVIS|はスケートボーダーでは無い人もこぞって履いた。

彼らが生み出した「コラボレーション」という概念は世界中に影響を与えた。

その影響を受けた1人であるジェームス・ジェビアも1994年に|Supreme|を立ち上げる。
このブランドは皆様もご存じだろうが世界を席巻する事になる。

SKATEBOARD
歴史

SKATEBOARDING IS NOT A CRIME
「パンクで創造的な遊び」の軌跡

'1940-

スケートボード
誕生

諸説あるが、カリフォルニア州で子どもの遊び道具として誕生。

'1950-

ローラーサーフィン
発売

「ローラーダービー」社がローラースケートを木の板につけた商品を発売。
カリフォルニアのサーファーが街中の「足」として使うようになる。

'1963

スケートボード大会
開催

サーフブランド「Makaha」の創設者ラリー・スティーブンソンが、
カルフォルニアのハモサビーチ近くの中学校を使って、
スケートボードのエキシビションが開催し、注目を集める。

'1965

「LIFE」誌
表紙を飾る

パティ・マクギーがハンドスタンド(逆立ちで乗る技)をする姿が、
アメリカの有名雑誌「LIFE」の表紙を飾る。
全米中の話題になり、第一次スケートブームが起きる。

'1973

ウレタン製ウィール
開発

今までゴム製ウィールを使われていたが、ウレタン製に変更。
さらに、ペアリングもボールペアリングからシールドペアリングへ進化。
その結果、スムーズな動きとなり滑走性能が大きく向上した。

|SANTA CRUZ|
スタート

カリフォルニア州サンタクルーズでリチャード・ノヴァックによって、
NHS社を創立するとともに|SANTA CRUZ|をスタート。
サーフィンの余剰資材でスケートボードを製作したのが始まり。

'1975

世界大会
初開催

カリフォルニア州ベニスビーチで技を競い合う世界大会が初開催。

「Z -BOYS」
結成

ゼファーサーフチームから分離する形でスケートチーム「Z-BOYS」結成。
ステイシー・ペラルタ、トニー・アルバら5人から始まった。
一気に人気が出て大きなスポンサーが付いたため、翌年には解散する。

'1976

「ERA」
発売

|VANS|の名作「AUTHENTIC」を、
「Z-BOYS」メンバーが履き口にパッドを入れる。
それを商品化して「ERA」として発売。

'1978

|POWELL PERALTA|
スタート

ステイシー・ペラルタと博士号を持つ生産者ゴージ・パウエルが設立。
|SANTA CRUZ|に次ぐ歴史のあるブランドとして長く君臨した。

|INDEPENDENT|
スタート

|SANTA CRUZ|と同じNHSのトラックブランドとしてスタート。
高品質なトラックが当時無くて生まれ、いまだに第一線級で活躍。

'1979

「BONES BRIGADE」
結成

ステイシー・ペラルタが結成したスケート史上最高のチーム。
スティーブ・キャバレロやトニーホークなどのスーパースターを発掘した。

「オーリー」
誕生

BONES BRIGADE所属のアラン・ゲルファンドがボウルにて記録。
トリック名は「ノーグラブ・フロントサイドエア」だが、
彼のニックネームだった「オーリー」と呼ばれるようになる。
フラット(平地)では、チームメイトのロドニー・ミューレンが開発する。

'1981

「THRASHER」
創刊

サンフランシスコでエドワード・リギンズがスケーターのために創刊。
雑誌の販促グッズとしてアパレルも製作すると、
ロゴのインパクトなどで大人気になり、アパレルブランドとしても展開。

|STUSSY|
スタート

ショーン・ステューシーが
1979年からサーフボードにサインを入れて販売。
そのロゴが人気となり、Tシャツやショーツを販売し始める。
その後1984年、会計士フランク・シナトラとともに会社化する。

'1984

スケートビデオ
発売開始

「The Bones Brigade Video Show」というスケートボードVHSを
|POWELL PERALTA|から発売。静止画から動画メディアに変化する。

'1986

|AIR WALK|
スタート

ビル・マンとジョージ・ヨーンによって|AIR WALK|スタート。
革新的なデザインと優れた耐久性、機能性により、1年で全米にブーム。

|FTC|
スタート

サンフランシスコのスポーツショップの片隅でスタート。
創業者ケント・ウエハラが展開を広げ本格的なスケーターブランドに。

|Etnies|
スタート

1986年にフランスでシューズブランドとして創業。
1990年にソール・テクノロジー社の傘下となり、アメリカに本拠を移す。

'1987

|World Industries|
スタート

スティーブ・ロコがサンタモニカでブランドをスタート。
仲の良かったロドニーミューレンが1988年には仲間入りする。

世界初シグネチャースケートシューズ
発売

1986年に立ち上がった|Etnies|から「NATAS」が発売される。
ストリートスケートの礎を築いたナタス・カウパスのシグネチャー。

'1989

ダブルテールデッキ
誕生

フェイキー(逆での滑走)でのトリックが増えた為、
両先端にキックがあるデッキが誕生する。
|World  Inadustries|がマイク・バレリーの為に発売し広がる。

'1991

|VOLCOM|
スタート

リチャード・ウールコットとタッカーホールがカリフォルニアでスタート。
スケート、スノーボード、サーフィンの「3S」ブランドとして始まった。

'1992

「HALF CAB」
発売

1989年に発売したスティーブ・キャバレロのモデル「CABALLERO」。
Hiカットだったため、Midカットにした後継モデルとして発売。

|ELEMENT|
スタート

ジョニー・シラレフとアンディー・ハウエルがアトランタで立ち上げる。
元々はアンダーワールドエレメントという名前で展開していたが、
1994年からアンディーが離脱し、|ELEMENT|として展開開始。

'1994

|Supreme|
スタート

ラファイエットにある古いオフィススペースに1号店をオープン。
元々は、スケートショップとしてオープン。
|ZOO YORK|や|VANS|等をセレクトしており、
オリジナルとしてSupreme名義でTシャツなどを出していた。

'2002

|HUF|
スタート

キース・ハフナゲルがサンフランシスコにショップ「HUF」オープン。
その後間もなくオリジナルブランドとして|HUF|を展開開始。

|NIKE SB|
スタート

2000年にスケートボード用にナイキダンクロープロBを発売。
その製作チームがそのまま|NIKE SB|を立ち上げる。

'2006

|adidas skateboading|
スタート

|adidas originals|の中のスペシャルラインとして2006年にスタート。
|adidas|スケートチームに所属するスケーターたちのために作られた。

'2009

|PALACE SKATTEBOARDS|
スタート

ロンドンでレヴ・タンジュによってスタートする。
元々は「Palace Wayward Boys Choir(PWBC)」というスケートチーム。

'2015

|NOAH|
スタート

ニューヨークでブレンドン・バベンジンが2002年に創業。
2006-15年の間に|Supreme|のクリエイティブ・ディレクターを務める。
|Supreme|退社後に本格始動し、1号店をオープン。

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