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昨今、多くの人が履いているスニーカー。
当たり前だがそのスニーカーにも深い歴史がある。

まず運動靴としてアスリートが履き始め、スポーツの現場で機能的に進化を重ねた。
その機能美がファッションとして昇華し、ストリートの若者に受け入れられた。
今では売っている靴の70%以上がスニーカーだというデータも出ている。
1900年代の初めには誰も履いておらず、2000年代の初めも35%前後だったというデータもある。

特に日本人はスニーカーを愛し、熱狂した。
その熱狂具合は、スニーカーの中心地がTOKYOになった程。

なぜ日本は、いや世界はここまでスニーカーに熱狂したのか…。
そして、これからも熱狂するのか?
スニーカーの誕生から現在までを振り返る。

INDEX

あなたは、世界を巻き込んだ兄弟喧嘩をご存知だろうか?

兄ルドルフ・ダスラーと弟アドルフ・ダスラー。それは、|PUMA プーマ|adidas アディダス|による喧嘩である。

この2人は、ドイツのヘルツォーゲンアウラハという小さな町で生まれ、喧嘩後もこの町に拠点を根ざし、現在も本社はどちらもこの町に健在だ。

そして、この町は「下ばかりを見ている人たちの町」と呼ばれるようになった。

つまり、「どちらの靴を履いているか?」が重要であり、靴で物事を判断する町である。

PUMA派はadidas派と結婚は出来ないし、adidas派はPUMA派のレストランで食事も出来ない程だったとか。

ドイツ・ヘルツォーゲンアウラハの魅力を|PUMA|が紹介する。

この町だけでなく、スニーカーやスポーツシューズ、特にサッカーを舞台に世界中で境界線を作った。

世界を2つの派閥を分ける程の兄弟喧嘩を、紐解いていく。

兄弟が「靴作り」を開始。
ダスラー兄弟会社創業

この兄弟喧嘩の転機には、戦争が関わる。

ヘルツォーゲンアウラハで、代々織物業をしていたダスラー家は、産業革命の影響で時代遅れとなっていた。そこで、クリストフは靴職人に転向する。

クリストフが地道に縫製技術を学んでいる間に、妻のパウリーナは自宅の裏で洗濯屋を始め、家計を助けた。

その洗濯物の配達を行っていた、フリッツ・ルドルフ・アドルフ(通称:アディ)の三人兄弟は、この町の有名な「洗濯坊や」だった。

その坊や達の生活にも転機が訪れる。
時は1914年。第一次世界大戦が始まる。フリッツとルドルフは戦争に駆り出される。アディも17歳になり、戦争に駆り出される。

ドイツが敗戦し3兄弟が帰還。戦時中は、洗濯を外に頼む家は無く、パウリーナは洗濯屋は畳んでいた。

その洗濯屋跡に、アディは靴作りの設備一式を備え付ける。その仕事場を使って、靴作りを行い商売を始める。

起業から2年後の1924年に、兄のルドルフを誘い、「ダスラー兄弟商会」をスタートする。

外交的な兄ルドルフが営業を行い、寡黙な弟アディが靴作りを行った。

スポーツシューズ製作開始

スポーツが好きだったアディは、手始めに陸上競技用のスポーツシューズを製作する。

その2年後の1927年には、1日に100足を製造する程に成長する事となる。

1928年のアムステルダム・オリンピックでは、初めて出場者に使用される事となった。そして、この年にはサッカーシューズも制作される。それは、靴底に小さな円筒型のスパイクを取り付けたシューズでした。

その次の1932年に行われたロサンゼルス・オリンピックでは、ダスラー兄弟商会のシューズを履いたアルトゥール・ヨナトが100m走で銅メダルが獲得。

ダスラー兄弟商会はスポーツシューズを製造する事で、着々と発展していく事となる。

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ヒトラーの後押しで急成長

1933年に、アドルフ・ヒトラーが率いる国家社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)が政権を握る。

そのナチ党にダスラー3兄弟も入党。ヒトラーはスポーツを規律と同朋意識を高める為に、スポーツ振興に力を入れた。その事でスポーツシューズの需要が急増し、更にダスラー兄弟商会を成長させる。

1935年の会社の収益は40万ドイツマルクを超え、ほとんどのドイツのアスリートはダスラー兄弟商会のシューズを履いていた。

そして1936年に、いよいよヒトラーが権力誇示の場に活用しようとしていた「ベルリンオリンピック」が始まる。

友人のヨーゼフ・ヴァイツァーがナチ党の陸上競技のコーチをやっていた為、ほとんどのドイツ選手がダスラー兄弟商会のシューズを着用した。

だが、アディは自分のシューズをドイツ以外の選手に履いて欲しいと考えた。その名は「ジェシー・オーエンス」。アメリカの黒人選手で前評判も高く、今回のオリンピックのヒーローになると注目されていた。

アディは会場で近づき、ダスラー兄弟商会の商品を身振り手振りで紹介し、オーエンスは着用する事を承諾する。

ヒトラーはこの黒人選手に苦渋を味わう事となる。4つの金メダルと5つの世界記録を樹立。この大会でのヒーローとなり、ダスラー兄弟商会はオリンピック出場者やコーチから一躍注目を浴びるようになる。

その一方で、製品の種類は増え続けていった。アディはオリンピック委員会と協力し、スポーツ毎にシューズを製作した。1938年には、ダスラー兄弟商会は11の競技に30種類ものスポーツシューズ製造するようになっていた。

ヒトラーが推し進めた「スポーツ振興」によって成長したダスラー兄弟会社が、ヒトラーの「人種差別政策」に反対派の旗印的存在のジェシー・オーエンスによって世界に進出する。とても面白い話だ。

栄光のランナー【映画】
2016年にアメリカ・ドイツ・カナダの合作で、ベルリンオリンピックで史上初の4冠を達成したジェシー・オーエンスの半生を描いた映画。

第二次世界大戦と兄弟喧嘩の開始

1939年、ドイツ軍がポーランドに侵攻を始める。それをきっかけに第二次世界大戦が始まる。この戦争によって、ルドルフとアディの対立は決定的なものとなる。

ナチ党の熱心なスポーツ政策の恩恵を存分に受けていたダスラー兄弟商会の勢いはパッタリと止まる事となる。ヒトラーが戦争に専念するようになったからだ。

彼らの工場も厳しい規制を受け始めた。兄弟は思い悩んだ末、会社は閉鎖しないものの生産は大幅に削減することを決めた。

1940年8月7日、ついにアディにも召集令状が届き、12月から諜報部隊に出頭。ただ、3ヶ月で兵役が免除される事となる。ダスラー兄弟商会にアディの技術が不可欠とみなされたのが、理由だった。

この事がのちに大きな亀裂を作る事となる
元々性格が真反対だった兄弟は不仲になってきていたが、「弟アディの方がダスラー兄弟商会には必要」という事が公然の事実となった事が兄ルドルフは気に食わなかった。
そして、「アディが自分をダスラー兄弟商会から追い出そうとしている」と被害妄想を抱くようになる。

ある夜の事、連合国の空襲が始まり、ルドルフは防空壕に避難。その後、壕に避難して来たアディは「ほら、また忌々しいろくでなしどもだ!」と、敵軍機を罵った。
だが、被害妄想に苛まれているルドルフは、自分の事だと思って怒りに震えた。

兄弟の亀裂が決定的になったのが、1943年1月。戦争も終盤となり、ヒトラーは国内総動員体制を取る。そんな中、アディはまた工場での職務のおかげで免除されるが、ルドルフは召集される事となる。

夜盲症だったルドルフは事務職に就き、他の兵士に比べるとかなりマシではあった。ただ、兵役を逃れた弟に対しての怒りが収まらず、「工場の閉鎖を求める」といった意図の手紙を弟に送った。

半年後、ルドルフの思い通りとなり、ダスラー兄弟商会が閉鎖する事となる。会社の設備も、装甲車やバズーカ砲の予備部品の製造に使われた。

戦争の終焉と兄弟喧嘩本格化

1945年4月30日にアドルフ・ヒトラーは自殺。同年5月8日には連合国に無条件降伏する事となる。

ルドルフは、保安諜報部に勤務し、傍聴活動と検閲を行った容疑(実際には、命じられていたが拒否していた)として逮捕される。実際に勤めていないのに逮捕され、米国兵士には自分の逮捕は告発によるものだと聞かされた。ルドルフは、密告者が誰かは疑う余地が無かった。

一方アディも、1946年7月13日に非ナチ化委員会から、ナチ政権に積極的に関与し、個人的利益を得たとして「容疑者」に分類された。この判決は、製靴会社への出入り禁止、ひいては工場没収を意味していた。

アディとその周りの人(特に町長)たちは、証拠を集めて委員会への嘆願書を作成する。しかし、そういった努力をもってしても、嫌疑を完全に払うことは出来なかった。7月30日、非ナチ化委員会から判決の変更を知らせる二通目の封書を受け取った。「準容疑者」に変更されたものの有罪である事は変わらなかった。

ルドルフ・ダスラーは、逮捕からの約1年後の1946年7月31日に解放される事となる。そしてこの帰還が、醜い兄弟喧嘩を引き起こした。

ルドルフは、非ナチ化委員会に戦時中のダスラー兄弟商会の活動について聞かれると、この時とばかりにアディを非難した。

アディの妻であるケーテは、ルドルフの非難に対しての意見書を提出する。更に「ルドルフ・ダスラーは、アディが告発したと非難していますが、これは事実ではありません。むしろ私の夫は、兄の潔白を証明しようと最大限の努力を払いました」とも書いた。

その意見書が1946年11月11日に正式に受理され、その数週間後に「同調者」に分類された。党員になったものの、ナチ政権に積極的には関与しなかった者として認定されたのである。これは無罪に等しかった。

この結果、兄弟は決別する

ルドルフは、アウラッハ川の対岸に引っ越した。資産は兄弟間で細かく振り分けた。一方、従業員がどちらに行くかは、自由意志に任せた。予想通り、販売部門の大部分がルドルフを選び、技術者はアディの側についた。

1948年4月、資産分配を巡る争いを経て、兄弟は完全に袂を分かつ事となる。

翌月には、別会社を登録できることになった。アディは自分の名前を縮めて|adidas アディダス|とする。ルドルフの方は|RUDA ルーダ|とするが、後により軽快な印象の|PUMA プーマ|で登録する。

兄弟で始めた「ダスラー兄弟商会」は、オリンピックを機に世界中に知られるようになる。

そして、兄弟の確執は家族や社員を引き裂き、町全体を引き裂く事となる。

その後、兄弟が始めたブランドがどちらも人気となり、オリンピックやワールドカップなどのイベントを通じて、世界まで引き裂く事となる。ただ、これはまた別のお話。

次回は、スニーカー界最大ブランド|NIKE ナイキ|の誕生物語。|ASICS アシックス|との関係を紐解く。

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