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|HEAD PORTER ヘッドポーター|とは、藤原ヒロシがデザインをプロデュースして、株式会社吉田が製造するバッグブランド。
2019年に惜しまれつつブランド終了してしまうが、いまだに人気が高い。
なぜこんなに人気があるのか?が分からない人も多いのではないでしょうか。
深い歴史から、シリーズ別の人気まで徹底解説をします。
アイデアと|PORTER|の技術で生まれた
藤原ヒロシの「ポーター長」
見た目はほぼ|PORTER|と変わらないが、どこかセンスを感じる。
そんなバッグに出会った事はないだろうか?
20世紀の最後にブランドとブランドを掛け合わすと大きな力とムーブメントを生み出す事が分かった。
その真ん中で君臨していたのが藤原ヒロシで、そして生まれたブランドが|HEAD PORTER|だ。
では、どうしてこのコラボレーションブランドが生まれたか?歴史を紐解きます。
佐藤チカ【スタイリスト、シンガー】
スタリリストとして活動していた中で、中西俊夫に誘われテクノバンド「プラスチックス」のヴォーカルとして活動。プラスチックスが解散後も「MELON」で活動するが、アパレルブランド|CHIKA SATO|を展開するなどマルチに活躍した。
まだ|PORTER|は町の工場ブランドの一つであり、しかもまだ男性が仕事以外でカバンを持つ事が受け入れられていない状況の中、ヒロシは発売後すぐに購入。
現在でもスタンダードとして使っているという。
藤原ヒロシは、Macパワーブックを入れるカバンが欲しく、共通の知り合いを経て自分専用のタンカーを作ってもらう。
そして、1995年に史上初?のブランド同士のコラボレーション、ダブルネームが誕生する。
最初の商品はタンカーシリーズのレコードバッグ、マジソンバッグ、ボンサック、そして3WAYのブリーフ・ケース。
その中でもブリーフ・ケースは2層になっており、さらにそれまでのジッパーはシングルだったが、ダブルに変更した。
ヒロシのセンスが商品開発に活かされている。
このダブルネームを経て|PORTER|は全国、いや世界レベルのブランドと成長させる。
1995年までタンカーは月産50個位しか作られていなかった。
裏原界隈のブランドとのダブルネーム、1997年「ラブジェネレーション」でのキムタクが使用したことを経て、多くの人が所有することとなる。
吉田克幸と藤原は|PORTER|と|GOOD ENOUGH|のコラボレーション以降、関わりが生まれ、お互いの才能を認め合っていた。
そして、2人が表参道の信号待ちをしている時に、藤原から|HEAD PORTER|のアイデアを切り出される。
「いろんなしがらみが出てきたり、いろんな問題が出てきたとしても、そんなものよりもっともっと大きな夢を取ろう」
と話し合い、2人が結託する事となる。
吉田克幸【Porter classic会長、デザイナー】
1947年生まれ。|PORTER|創業者吉田吉蔵の末っ子。
海外遊学の後、1981年ニューヨーク・デザイナーズ・コレクティブのメンバーに日本人で初めて選出。2007年息子の吉田玲雄と|Porter classic|を設立。
そして、藤原ヒロシが運営していたショップ「レディ・メイド」の1階に|HEAD PORTER|の専門フロアを作る。
|HEAD PORTER|は、日本人以外も支持されたブランドだ。
ヒロシと古くから親交があり、STUSSYニューヨークの管轄をしていたジェームス・ジェビアは「ニューヨークの店舗にこのカバンが必要だ」と考える。
ジェームス・ジェビア【SUPREME創業者、デザイナー】
1963年生まれ。アメリカで生まれるが、両親がイギリスに移住した為、幼少期をイギリスで過ごす。19歳の時にアメリカ・ニューヨークに戻る。
1989年に、セレクトショップ「ユニオンNYC」をスタート。|STUSSY|創業者のショーン・ステューシーと交流が深まり、STUSSYのニューヨーク店マネジャーを務める。
1994年に|SUPREME|を立ち上げる。
そして、関税等の問題があったものの、なんとかクリアして日本の売価の1.5倍位になるものの、2000年9月から販売開始。
オープンを記念して「ブラックビューティー」を発売する。
お馴染みのタグのステッチまでも全てブラックで統一されたこのモデルは、アメリカだけでなく、日本のファンも購入のためにニューヨークに旅立った。
1998年に生まれた|HEAD PORTER|は2019年に20年の活動に幕を閉じた。
その理由は特に明言されておらず、「20年という節目に閉じよう」という考えからだと考えられている。
|HEAD PORTER|を引き継ぐ形で|RAMIDUS|という
「あらゆるスタイルに似合う“ニュースタンダード”」をテーマにした鞄ブランドをスタート。
それから考えるに、自分たちが作ってきたものを次の世代に引き継ごうとしているのではないだろうか?
自由に作っていって欲しいという気持ちから|PORTER|とは関係のない形で引き継がれたのではないでしょうか。
その想いを引き継ぐ形で「ブラックビューティー」をオリジナルの生地やデザインで2020年に復刻している。
藤原ヒロシがいつの時代も新しいと感じる理由はこういった行動・決断を取れるところだと感じる。
本格的なバッグメーカーと
裏原の首領が作った文化の軌跡
'1995
世界で初めてのブランド同士のコラボとされている。
|GOOD ENOUGH|創業者藤原ヒロシのDJバッグを
|PORTER|が作った事が始まりと言われる。
'1998
藤原ヒロシがやっていたショップ「レディ・メイド」の1Fでスタート。
そもそもはギャラリーの後に|PORTER|の専門フロアを作る予定が、
当時のチーフだった吉田克幸と話し、|HEAD PORTER|を始める事に。
'2000
開店当初日本とアメリカ全土からショップオリジナル商品を求めて殺到。
その中の一つが不朽の名作「ブラックビューティー」。
'2019
20年の歴史に幕を下ろす。
後継ブランドとして|RAMIDUS|がスタートする。
本格的なバッグメーカーと
裏原の首領が作ったアイテムたち
ブランドがスタートした1998年から続いている定番シリーズ。
今までタンカーは通常ブラック・セージグリーン・シルバーグレーの3色展開だったが、藤原ヒロシのアイデアでネイビーで展開。
また、サイズ感や装備も微妙にオリジナルと変化させている事が多く、使いやすさに定評がある。
2000年に|HEAD PORTER|のニューヨーク店がオープン。
当時、アメリカはもちろん、日本からもショップオリジナルモデルを求めて多くのファンが押し寄せた。そのひとつが、「ブラック ビューティ」と呼ばれるオールブラックのシリーズ。お馴染みのタグのステッチも黒になっている。
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