超ネットワーク社会と言われている昨今、検索窓に数文字打てば無限の情報が引き出せる。

それ以前は、人々はどうやって情報を引き出し、アップデートしていたか?

よくよく考えると、今と全く変わらないのだ。

と言うのは、メディアが変わってはいるものの、誰かが語って、書いて、撮ったものが情報化されて、私たちに届く。

その情報を自分たちの身につけるものに落とし込んでいく。こうやって流行(ファッション)が出来上がる。

その最前線を、30年以上走っている藤原ヒロシという人物をご存知だろうか?

彼と時代を同じくした人達であれば、どういった経歴であるかも含め理解している事だと思う。

ただ、若い読者であれば、「名前は知っているものの…」や「知らないなー」という状態だと思う。

インターネット隆盛前夜から、世界の最先端を編集して、お届けしていた人物「藤原ヒロシ」を全三編で紹介する。
今回は、1編目として音楽との出会いからその最前線を走った記録を解説します。

INDEX

藤原ヒロシの凄さを語る上では、まずは交友関係を紹介する事が早い。

上記の図の通り、ファッション関係の人達だけでは無く、音楽関係を始め、あらゆる有名人と知り合っているだけでなく、深い関係を作っているのだ。

多くの人の心を魅了する、その「カリスマ性」はこの図を見れば明白だろう。

では、なぜこの交友関係を築けたか?

それは、彼の半生を紐解く事で、皆さんにも理解して頂けるだろう。

1982年
藤原少年上京物語

藤原ヒロシは、1964年三重県伊勢市に誕生。父は競輪選手の藤原武。3人兄弟の末っ子として育つ。

スケートボードとパンクが好きな少年として育つ。
ヒロシ少年が11歳だった1975年。
そのふたつの業界のマスターピース的存在のチームが結成されている。スケートボード界では「Z-BOYS」、音楽業界では「セックスピストルズ」。
どちらもまだ創成期で、世間一般ではまだ認知されていない存在だった。

Z-BOYS 【スケートボードチーム】
1971年にベニスビーチのサーフショップ「ジェフ・ホー・サーフボード&ゼファー・プロダクション」がゼファーサーフチームを作る。ショップの周辺を通称「ドッグタウン」と呼ばれ、他所から来たサーファーを締め出したりしていた。
1975年から、スケートチーム「Z-BOYS」が分離される。ステイシー・ペラルタ、トニーアルバ、ジェイ・アダムズ、ネイサン・プラット、アレンサーロの5人がオリジナルメンバーでスタートするが、その後すぐに6人が加わり11人のチームとなった。メンバーが活躍することで、数々の雑誌の表紙を飾るなど、ロックスターばりの人気を誇った。スタイルという概念を取り入れたり、水が入っていないプールでスケーティングを始めるなどパイオニアとしても有名に。その後、メンバーにそれぞれ大きなスポンサーが付いたことにより、1976年にあっけなく解散した。

とにかく、藤原ヒロシのアンテナは子ども時代から感度良好だったのだ。
さらに中学時代には、好きなブランドの服を手に入れる為に大阪のお店に電話をするほど、行動力と探究心がある少年だった。

そんな藤原少年が、1982年にセツ・モードセミナーに入学し、3週間で中退。藤原少年としては、東京に出る大義名分として入っただけで、そもそもすぐ辞める予定だったとの事。

退学後も東京に居座るのだが、多くの時間を過ごしたのは「ツバキハウス」であり、その中でやっていた「ロンドンナイト」だ。

ツバキハウス 【ディスコ】
アメリカ式ディスコの草分け的存在。
ファッションデザイナーのコシノ・ジュンコや三宅一生、高田賢三も通っていたこともあり、ファッション業界の人が多く通っていた。

ロンドンナイト 【イベント】
1981年に「ツバキハウス」で大貫憲章が始めたロックイベント。
ツバキハウスの特徴から文化服装学院などのファッション関係の人も多かったが、無名時代のブルーハーツや布袋寅泰なども通っていたと言われるイベント。

「ロンドンナイト」は、他のディスコやクラブとは違い藤原少年の大好きなパンクロックも何でもありなイベントだった。
その発起人・大貫憲章のフラットな人間との付き合い方、何でもありな「ロンドンナイト」の影響も大きく受けている。

大貫憲章 【音楽評論家・DJ】
1951年生まれ。
大学在学中から音楽評論家として執筆活動を開始。当時無名だった「クイーン」をいち早く日本に紹介した。
1981年からロックDJとしても活動し、同年に「ツバキハウス」でロンドンナイトを開始する。

「ロンドンナイト」で開催されたファッションコンテストに出場する。
もう既に交流のあった|MILK ミルク|のデザイナー大川ひとみが審査員長を務めていた為、半ば出来レース的に優勝。この優勝賞品としてロンドン行きのチケットを手に入れた。

それにより、藤原少年は憧れの地・ロンドンを訪れ、この旅が「最先端を編集する男・藤原ヒロシ」を作る事となる。
そして、この旅のハイライトは憧れていたマルコム・マクレーンと語らう事だ。

1982年
ロンドンで憧れの人と交流

藤原少年は昔から、パンクバンド「セックス・ピストルズ」を聴き、|Seditionaries|の洋服をよく着ていた。

まさに、全てをプロデュースしていた「マスターマインド的な存在」マルコム・マクラーレン。
藤原少年は彼に憧れていたのである。

マルコム・マクラーレン【マネージャー、デザイナー】
1946年生まれ、美大生時代にヴィヴィアン・ウェストウッドと出会い、子どもを授かる。
1971年にヴィヴィアンと共に「Let It Rock」を開店。1974年「SEX」、1976年に「Seditionaries」」、1979年に「Worlds End」に店名を変更。
1974年のニューヨークで「パンク」に出会い、1975年にはお店「SEX」の従業員や常連客をパンクバンド「セックスピストルズ」に仕立て上げ、本人はマネージャーとなる。
ヒロシと出会った翌1983年に動画の「Buffalos Gals」を収録したアルバム「Duck Rock」をリリース。
その当時からHIP HOPに目を付けており、アフリカ系移民の文化を白人が取り上げたことにより、「HIPHOPの開拓者」とも呼ばれている。

マルコムにはひょんなことで日本で会う事に成功し、ロンドンに行く事を伝えると、なんと自宅の連絡先を教えてもらう。

ロンドンの自宅に行くと、ワインを飲みながら色々な話をするが、マルコムと話した内容が藤原少年を「最先端の男」とする。

左がヴィヴィアン・ウエストウッド、右は若かりし頃の藤原ヒロシ。

左がマルコム・マクラーレンと、右がヴィヴィアン・ウエストウッド。

1983年
日本初リミックスDJとしてデビュー

ロンドンでマルコムと話をした時にニューヨークに行くことを伝えると、ある男を紹介される。

紹介して貰ったテリー・ドクターは只者では無かった。ファッション、音楽業界全てをカバーしており、テリーの案内で、ニューヨークのDJ現場を体感する。
当時の日本のDJは「選曲・曲順を工夫して音楽を流す」という認識だった。
ただ、ニューヨークではすでにリミックスを行なっており、色々な曲やテクニックを駆使して、曲をアレンジしていた。

REMIX(リミックス)【DJ用語】
ミックスしなおすという意味。曲の構成を変えて作り直す作業であり、すでに作品として出来上がっている曲に手を加え、違う雰囲気の曲にしてしまうこと。
既存の楽曲の音素材を再構成したり様々な加工を加えることによって、その曲の新たなバージョンを製作すること。

帰国後、音楽の趣味が近く仲良くしていた鷲田欣司が経営していた「ライズ・バー」に入り浸るようになる。

ライズ・バー【クラブ】
トミーズハウスでアルバイトをしていた鷲田欣司が26歳の時に千駄ヶ谷で開業したクラブ。鷲田がレゲエ・ムーヴメントの仕掛け人という事もあり、レゲエやHIPHOPは早めに取り入れていた。

鷲田の仕事(|TAKEO KIKUCHI タケオキクチ|デザイナーである菊地武夫のパーティー)の手伝いをきっかけにリミックスを行う。
これが日本初のリミックスDJの誕生とされている。

藤原ヒロシ、ヤン富田、DUB MASTER X、K.U.D.O.、高田宗則、川勝正幸によるDJ教則ビデオ「HOW TO DJ PART 1」

1985年
「タイニー・パンクス」を結成

ロンドンで語らったマルコム・マクラーレンとは、ニューヨークの話以外にもHIPHOPの話をしていた。
彼には、HIPHOPの開拓者というもうひとつの顔を持っていた。
マルコムとの交流の中でヒロシも、元々興味を持っていたが、さらにHIPHOPにハマっていく。

そして1985年に高木完とHIPHOPユニット「タイニーパンクス」を結成する。

高木完 【ミュージシャン、DJ、プロデューサー】
1961年生まれ。高校時代からパンクバンド「東京ブラボー」で活動。1979年にはバンド「FLESH」のボーカリストとしてデビュー。「ツバキハウス」でのライブ活動を実施し、大貫憲章を通じ藤原ヒロシと仲良くなる。

「タイニーパンクス」という名前は、藤原ヒロシがロンドンに行った時に呼ばれたあだ名を複数形にしたもの。
当時、マルコムやヴィヴィアン・ウエストウッドと、彼らの店「ワールズエンド」のスタッフに「タイニー(小さい)パンク」と呼ばれていた。

藤原ヒロシは、世界で初めて日本語ラップをする事になるのだが、そのきっかけを作った人こそ「景山民夫」である。

景山民夫 【小説家、放送作家】
1947年生まれ。放送作家としてキャリアをスタートし、エッセイやコラムニストとしても活躍。伝説的な番組「オレたちひょうきん族」にも出演しながら、小説「遠い海から来たCOO」で直木賞を受賞する等、色々な業界やメディアに影響力を持っていた。

景山は自分のラジオ番組に、作家として当時講談社で編集者をやっていた「いとうせいこう」と、選曲家として「藤原ヒロシ」を使っていた。
それがきっかけで、いとうせいこうと藤原ヒロシは仲良くなっていく。

いとうせいこう 【タレント、小説家、ラッパー】
1961年生まれ。早稲田大学在学中からピン芸人として活動。裏方でラジオの仕組みを勉強したいと頼み、タモリの「オールナイトニッポン」のADに。
大学卒業後に講談社に入社。「ホットドッグ・プレス」を担当するが、1986年に退社。その後、ヒップホップMCを行う傍ら、小説家としても活動。

景山は自分の番組に、作家として当時講談社で編集者をやっていた「いとうせいこう」と、選曲家として「藤原ヒロシ」を使っていた。それがきっかけで、いとうせいこうと藤原ヒロシは仲良くなっていく事となる。

いとうせいこうとタイニーパンクス共同名義のアルバム『建設的』でデビューを果たす。

元々、いとうせいこうとは自称「世界初の日本語ラップ」を景山民夫のライブでゲスト出演した際に実施。

その内容は、ふたりで車椅子に乗って登場し、田中角栄がリハビリしている様子をラップするといったものだったとか。 

1987年
「LAST ORGY」がスタート

雑誌「宝島」1987年7月号から、タイニー・パンクスの二人で超最先端事情通信連載として「LAST ORGY」をスタート。

宝島 【雑誌】
1973年に創刊した音楽&カルチャー雑誌。
当時はストリートファッションの特集やロックバンド特集など、当時の若者のバイブルとされていた。

この連載の特徴は、タイニーパンクスの二人の写真が必ずある事。二人は自分たちの中で「キテいる」服装をしていた。インターネットが無かった当時では、音楽とファッションが好きな若者達はこの連載が貴重な情報源だった。

1991年には、後に|A BATHING APE アベイシングエイプ|を立ち上げたNIGO®︎と|UNDER COVER アンダーカバー|を立ち上げた高橋盾に引き継ぎ、「LAST ORGY2」がスタートする。このLAST ORGY2が後に「裏原系」を作り出す事となる。

新たなコトをどんどんカッコ良く伝える藤原ヒロシは、この時にはメディアからもすでに「最先端の男」と考えられていたのだ。

1988年
「メジャー・フォース」発足

日本初のクラブ・ミュージックレーベル「メジャー・フォース」を発足。このレーベルは、バンド「MELON」の中西俊夫、工藤昌之(K.U.D.O)、屋敷豪太(GOTA)の3人と、タイニーパンクスの2人の計5人のプロデューサーからなる。

MELON 【バンド】
1981年、元プラスチックスの中西俊夫と、佐藤チカらを中心としたバンドとして結成。
結成当時はファンク色の強いニューウェイヴだったが、1983年から屋敷豪太と工藤昌之(K.U.D.O)が加入し、ヒップホップ・エレクトロに傾斜する。

アーティストとしてはスチャダラパーなどがデビュー。

スチャダラパー 【HIPHOPグループ】
1988年結成。BOSEとANI、SHINCOの3人組。
活動開始してまもなく、メジャー・フォース主催の「第2回DJアンダーグラウンドコンテスト」において、「太陽にほえろ!」のテーマソングにラップを乗せるパフォーマンスが話題となり、特別賞を受賞。そのまま1990年に高木完プロデュースによりメジャー・フォースからデビューした。

スタッフは後に|NEIGHBORHOOD ネイバーフッド|を立ち上げる滝沢伸介などがサポートした。

元々、タイニー・パンクスとソニーが組んでNYでクラブを立ち上げる予定だった。しかし、途中で頓挫し、レーベルを立ち上げる話だけが残り、ソニーのアンテナ部署的な役割でスタートした。

藤原ヒロシはその後、ハウスミュージックに興味を持ち、段々フェードアウトするようになるのだが、藤原ヒロシが世に出ていく中では重要な役割を担っていた。

その役割として、1989年にリリースした「T.P.O.」の「Hiroshi’s Dub」は、ノーマン・クック(ファットボーイスリム)がイギリスの音楽雑誌でベスト10に入れて、注目を浴びた。

ノーマン・クック 【クラブDJ、ミュージシャン
1963年生まれ。
テクノ・ハウスの第一人者。ファットボーイスリムは1995年から名乗り始めたノーマン・クックの個人活動名義の一つ。

1990年
小泉今日子の「No.17」を発表

藤原ヒロシがフルプロデュースした小泉今日子17枚目のアルバム「No.17(じゅうななばん)」を発売。

小泉今日子 【歌手、女優
1966年生まれ。1981年日本テレビ「スター誕生」をきっかけにデビュー。当時、松田聖子と中森明菜の2強に続く存在で、1985年に発売したシングル17枚目の「なんてったってアイドル」は大ヒット。
衣装などを自分で決める事が多く、「セルフプロデュースアイドル」のはしりとされる。

小泉今日子と親交が始まったのは、1986年に行なった写真集「小泉記念艦」のスタイリングで参加した事がきっかけ。

小泉自身もハウスに興味をもており、1989年にはアルバム「KOIZUMI IN THE HOUSE」をリリースしていた。
曲の内容は、レゲエの名作をサンプリングしたり、ハウス・ミュージック等のクラブ・ミュージックアルバム。
17曲中14曲がGOTA、3曲がASA-CHANG(当時、東京スカパラダイスオーケストラのリーダー)とのプロデュース。

当時、日本の音楽評論家も藤原ヒロシを知っている人が少なかったが、小泉今日子との共作によっていろんな人に知られるようになる。

1998年
エリック・クラプトンとの深いつながり

エリック・クラプトンも藤原ヒロシと深く繋がっている人物のひとりだ。

エリック・クラプトン 【ミュージシャン、ギタリスト
1945年生まれ。
レッドツェッペリンの母体ともなるロックバンド「ヤードバーズ」に1963年に加入しデビュー。その後、1965年に脱退し「クリーム」を結成。
ビートルズの解散騒動時には、ジョン・レノンから加入を提案されるなど、イギリスをはじめとした世界的に影響力のあるギタリスト。

彼は大のストリートファッション好きで、ロンドンのセレクトショップ「Gimme5」で、|GOOD ENOUGH|を購入していたこともあり、日本でヒロシと交流が始まる。

Gimme5 【セレクトショップ
|STUSSY|のUK中心人物であり、イギリスのストリートシーンを牽引し続けたレジェンド、マイケル・コッペルマンによって1989年に設立。
コッペルマンがDJもしているため、藤原ヒロシとの関係もあり裏原系アイテムを多くセレクト。

1998年には、クラプトンのアメリカンツアー・スタッフ用コーチジャケットのデザインをヒロシがすることに。

|GOOD ENOUGH|名義でデザインされた1998年アメリカ・ツアーのスタッフ用コーチジャケット。

さらに、2001年にもワールド・ツアー用フィールドジャケットを|ELECTRIC COTTAGE|名義でデザイン。

その後、格闘技「PRIDE」のテーマ曲を共作し、
さらに2006年にはHiroshi Fujiwara feat. Eric Clapton名義で4曲入りマキシ・シングル「カプチーノ」をリリース。
タイトル曲「カプチーノ」は、ヴォーカル・作詞を松任谷由実、作曲をヒロシとエリック・クラプトンが手がけた。

「藤原ヒロシ」
年表

全てを壊し創造する男
トップを走るまでの軌跡

'1964

藤原ヒロシ
誕生

1964年三重県伊勢市に誕生。
父は競輪選手の藤原武。3人兄弟の末っ子として育つ。

'1982

ロンドン
遊学

ファッションコンテストの副賞でロンドンへ。
マルコム・マクラーレンやヴィヴィアン・ウエストウッド等と交流。
18歳で世界のトップと交流した事がその後の活動につながる。

'1983

日本初
リミックスDJ

マルコム・マクラーレンの紹介で、ニューヨークのDJ現場を体感。
当時のDJは「選曲・曲順を工夫して音楽を流す」という認識だったが、
色々な曲やテクニック(スクラッチ等)を駆使して、曲をアレンジした。

'1985

「タイニーパンクス」
結成

高木完とヒップホップグループ「タイニーパンクス」を結成。
その後、いとうせいこうと「建設的」でデビュー。
いとうとは、世界初の日本語ラップを行なったとも言われる。

'1988

「メジャー・フォース」
発足

日本初のクラブ・ミュージックレーベル「メジャー・フォース」を発足。
中西俊夫、工藤昌之(K.U.D.O)、屋敷豪太(GOTA)の3人と、
タイニーパンクスの2人の計5人のプロデューサーからなるレーベル。

'1990

小泉今日子「No.17」
プロデュース

小泉今日子17枚目のアルバム「No.17(じゅうななばん)」プロデュース。
写真集にスタイリングで参加した事がきっかけで交流スタート。

|GOOD ENOUGH|
スタート

創立者は、藤原ヒロシ、スケートシング、岩井徹、水継の4人。
当時、服本来を見て欲しい事から「藤原ヒロシ」の名前は伏せていた。

'1995

|PORTER|
コラボバッグ発売

日本で初めてのコラボ商品と言われる。
タンカーを使ってレコードバッグを作り、数量限定で販売。
これを機に|PORTER ポーター|は全国区となり、
|HEAD PORTER ヘッドポーター|に繋がっていく。

'1997

「READY MADE」
開店

店内の1階がギャラリーで、地下がショップという作りだった。
セレクトする商品は、|NIKE|の限定商品から、
|GOOD ENOUGH|や|FINNES |等のオリジナルブランド、
|A BATHING APE ||UNDER COVER|の別注品等。
1998年には|HEAD PORTER|を1階で販売開始。
1999年12月人気絶頂の中閉店。

'1998

エリック・クラプトン
ツアーコーチジャケット作成

ショップ「Gimme5」マイケル・コッペルマンを通じて知り合う。
クラプトンは知り合う前から|GOOD ENOUGH|を購入してたとか。
1998年にアメリカンツアー・スタッフ用コーチジャケットを作成。
ジャケットには|GOOD ENOUGH|のタグが付いている。
2001年にもワールド・ツアー用フィールドジャケットを作成。
ジャケットには|ELECTRIC COTTAGE|のタグが付いている。

'2002

「HTM」
スタート

|NIKE|が、HTMというラインを発表。
HTMは、過去の名作をカスタマイズしてアップデートするライン。
藤原ヒロシの熱望により、名作ダンクが復刻し、大ヒットする。

'2005

「honeyee.com」
スタート

|SOPH.|の清永浩文、|visvim|の中村ヒロキと発起人になり、
Webマガジン「honeyee.com」を開設。
宝島社「smart」を手掛けた鈴木哲也を編集長としてスタート。
ファッションやカルチャーを中心としたライフスタイルを提案し、
著名人のブログを100日間のリレー形式で掲載し注目を集め、
当時のブログ系メディアの成功例とも呼ばれていた。

'2006

「カプチーノ」
リリース

4曲入りマキシ・シングル「カプチーノ」をリリース。タイトル曲は、
ヴォーカル・作詞を松任谷由実、作曲をヒロシとエリック・クラプトン。

'2007

|Uniform Experiment|
スタート

|SOPH.|の清永浩文とスーツを着る人向けにデザインする。

'2016

|Louis Vuitton|
コラボレーション

|Louis Vuitton|ディレクターのキム・ジョーンズと親交があり、
藤原ヒロシがやっていた|Flagment Design|とのコラボ商品を、
伊勢丹新宿店メンズ館ポップアップストアで発売。

'2018

「THE CONVENI」
出店

銀座ソニーパーク地下1階でコンビニをコンセプトにしたショップ。
実際に使用されている什器を用いて”リアルなコンビニ”を演出しながら、
藤原ならではのユーモアを取り入れたグッズを多数展開。

ここまでが、藤原ヒロシが音楽業界での経歴だ。

2006年にはDJを引退するが、その理由として「若い頃に思った『こんなDJになりたくない』という DJになってしまったということ 」と語る。
これは藤原ヒロシらしい考え方で、彼らしい潔さだ。

藤原ヒロシは音楽業界でも、「知る人ぞ知る」トップランナーだった野田。そのきっかけは一見幸運による出会いにも見えるが、藤原ヒロシの行動力や探究心が引き起こしている必然なのかもしれない。

次回は、ファッション業界に旋風を巻き起こした「裏原宿系ファッション」の誕生前夜から終焉まで、詳しく説明する。

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