ドイツの小さな町で「戦い」を巻き起こした2つのダスラー家。
しかし、「兄弟喧嘩」から始まり、「親子喧嘩」にも発展する。
まず、表面化するのは|adidas|だ。
1956年のメルボルン五輪でアディの息子ホルスト・ダスラーが、オリンピアンに無料でスパイクを配って、70人のメダリストが「3本線」のスパイクを履くこととなった。
今まではコーチや選手の間で話題になることは多かったが、TVやカメラの発展もあり一般の家庭まで「3本線」シューズの素晴らしさが伝わり、一躍世界中のアスリートに知り渡る。
靴作りに情熱を燃やした父アディ。その靴を世界に売り込む才能を持っていた息子ホルスト。
お互いに尊敬はしつつも、お互いに分かり合えない部分があり、ホルストをフランスの工場に武者修行の意味も込めて送り出す。
父の想いとは裏腹に息子は「adidas France」を立ち上げ、ドイツ対フランスの闘いにも発展する。
一方、|PUMA|にも親子闘争が巻き起こる。
創業者ルドルフは、短気な性格と弟アディへの被害妄想からか攻撃的な一面を持ち合わせていました。
そのため、息子アーミンには厳しく接しており、完璧な結果を求めていました。そのひとつとして、10歳離れた次男ゲルトに対しては優しく接し、不健全な競争心を煽っていました。
我慢の限界に達したアーミンは、|adidas|のホルスト同様に父の元を旅立つことに決める。
1961年にオーストリア・ザルツブルクにある工場を買い上げ、「PUMA Austria」を開始。
しかし、ルドルフはそれをよく思わずオーストリアの銀行への保証はもちろん、一切の援助を拒否した。
|adidas|と|PUMA|のふたつの親子抗争の決着は、父親の老衰で決着する。
|PUMA|は、息子アーミンが飛び出して3年で呼び戻し、父ルドルフに代わり経営をすることとなる。
|adidas|の代替わりは先になるが、ホルスト率いる「adidas France」が本家を上回る勢いで成長していた。
そして、そのさらに4年後の1968年のメキシコシティ五輪で、フランスの「3本線」が支配をする。
ホルストは、五輪関係者を懐柔し、|adidas|以外の製品を流通させないよう独占契約をしていたのだ。
それは|asics|の前身である|TIGER|が選手を煽動して販売できるようにしたり、|PUMA|の靴を持っているだけで警察に連行されるほどのレベルだったという。
メキシコシティ五輪でさらに|adidas|の地位が揺るがないものへとなっていく。