|PUMA プーマ|とは、ルドルフ・ダスラーが創業したフットウェアブランド。

弟アドルフと「ダスラー兄弟商会」として創業したが、仲違いし、弟は|adidas|として靴作りを再開する。
その後も兄弟喧嘩をしながらも全世界を席巻していく。

深い歴史から、ロゴの違い・人気アイテムや年代の見極め方法まで徹底解説をします。

INDEX

|PUMA|
歴史

兄弟喧嘩から生まれ
不思議な魅力を持つブランドの歴史

|PUMA|の前を憎き|adidas|が、常に歩んでいた。

だからこそ、このブランドには不思議なチャレンジがあり、そこに魅力があるのだ。

それはどういうことか?
歴史を紐解きます。

下ばかりを見ている人たちの町

1922年にアドルフ・ダスラー(通称:アディ)が母親の仕事場跡で靴作りをスタートさせ、2年後に兄ルドルフを誘い「ダスラー兄弟商会」をスタートさせる。

アディは昼夜問わず靴作りに熱中し、スポーツが好きだったため、手始めに陸上競技用のスポーツシューズを製作する。

その2年後の1927年には、1日に100足を製造する程に成長する。それをルドルフが販売し大きくしていくが、戦争が2人の仲を引き裂く。

|PUMA|と|adidas|はルドルフとアドルフの2人兄弟から始まり、喧嘩別れした事で2つのブランドが生まれる。

2人はドイツのヘルツォーゲンアウラハという小さな町で生まれ、喧嘩後もこの町に拠点を根ざし、現在も本社はどちらもこの町に健在だ。

そして、この町は「下ばかりを見ている人たちの町」と呼ばれるようになった。

つまり、「どちらの靴を履いているか?」が重要であり、靴で物事を判断する町である。

|PUMA|派は|adidas|派と結婚は出来ないし、|adidas|派は|PUMA|派のレストランで食事も出来ない程だったとか。

この町だけでなく、スニーカーやスポーツシューズ、特にサッカーを舞台に世界中で境界線を作った。

RUDAからPUMAへ
「フォームストライプ」の誕生

兄弟喧嘩により、1948年に「ダスラー兄弟商会」は解散することとなる。

兄のルドルフ・ダスラーは、自分の名前の頭文字とり|RUDA|をブランド名にする。
しかし、どうしても語感が垢抜けないように感じたため、|PUMA|に変更した。

また、ブランド名だけでなく靴の側面に入る「トレードマーク」も2つのブランドで別れることとなった。

1949年に|adidas|が「ダスラー兄弟商会」時代に使っていた「2本線」を「3本線」に変更する。

1958年には、|PUMA|も「フォームストライプ」という流線型のラインを入れる。
元々はシューズ内部の足を安定させるために考案されたが、五輪やW杯などのスポーツ競技によってブランド認知を高めていた事も影響していると言われている。

この「トレードマーク」を多くの人に見せるという競争が全世界のスポーツブランドで争われるようになる。

代替わりと「靴アピール」戦争

ドイツの小さな町で「戦い」を巻き起こした2つのダスラー家。

しかし、「兄弟喧嘩」から始まり、「親子喧嘩」にも発展する。
まず、表面化するのは|adidas|だ。

1956年のメルボルン五輪でアディの息子ホルスト・ダスラーが、オリンピアンに無料でスパイクを配って、70人のメダリストが「3本線」のスパイクを履くこととなった。
今まではコーチや選手の間で話題になることは多かったが、TVやカメラの発展もあり一般の家庭まで「3本線」シューズの素晴らしさが伝わり、一躍世界中のアスリートに知り渡る。

靴作りに情熱を燃やした父アディ。その靴を世界に売り込む才能を持っていた息子ホルスト。
お互いに尊敬はしつつも、お互いに分かり合えない部分があり、ホルストをフランスの工場に武者修行の意味も込めて送り出す。
父の想いとは裏腹に息子は「adidas France」を立ち上げ、ドイツ対フランスの闘いにも発展する。

一方、|PUMA|にも親子闘争が巻き起こる。
創業者ルドルフは、短気な性格と弟アディへの被害妄想からか攻撃的な一面を持ち合わせていました。
そのため、息子アーミンには厳しく接しており、完璧な結果を求めていました。そのひとつとして、10歳離れた次男ゲルトに対しては優しく接し、不健全な競争心を煽っていました。

我慢の限界に達したアーミンは、|adidas|のホルスト同様に父の元を旅立つことに決める。
1961年にオーストリア・ザルツブルクにある工場を買い上げ、「PUMA Austria」を開始。
しかし、ルドルフはそれをよく思わずオーストリアの銀行への保証はもちろん、一切の援助を拒否した。

|adidas|と|PUMA|のふたつの親子抗争の決着は、父親の老衰で決着する。
|PUMA|は、息子アーミンが飛び出して3年で呼び戻し、父ルドルフに代わり経営をすることとなる。

|adidas|の代替わりは先になるが、ホルスト率いる「adidas France」が本家を上回る勢いで成長していた。

そして、そのさらに4年後の1968年のメキシコシティ五輪で、フランスの「3本線」が支配をする。

ホルストは、五輪関係者を懐柔し、|adidas|以外の製品を流通させないよう独占契約をしていたのだ。
それは|asics|の前身である|TIGER|が選手を煽動して販売できるようにしたり、|PUMA|の靴を持っているだけで警察に連行されるほどのレベルだったという。

メキシコシティ五輪でさらに|adidas|の地位が揺るがないものへとなっていく。

名作「SUEDE」誕生物語

メキシコシティ五輪にはもうひとつ大きな事件が起きていた。

男子200mで期待されていたアフリカ系アメリカ人のトミー・スミスとジョン・カーロス。
この2人が金メダルと銅メダルを獲得することになるが、表彰式で自分たち黒人差別に対しての示威行為を行う。

貧困な黒人を象徴するために表彰台の上にシューズを置き裸足で参加。
さらに、国旗掲揚され国歌が演奏されている間、黒の手袋をした拳を握りしめ高々と突き上げた。
この行動に歓声とブーイングが巻き起こり、世界中のニュースで話題を独占した。

この時の表彰台の上に置かれたトレーニングシューズこそフォームストライプが入った「SUEDE」の祖先「CRACK」だった。

彼らの抗議行動を称賛して、2005年に出身校であるカリフォルニア州立大学サンノゼ校が銅像を建立。
しっかりと「CRACK」も再現されている。

ホルスト率いる|adidas|が、1960年代からバスケットボール業界に参入。
その結果、|CONVERSE|の独壇場を「SUPER STAR」によって駆逐していた。
1973年にはプロバスケットボール選手の約85%が三本線の入ったシューズを履いていたという。

それに対抗するために|PUMA|は、スター選手であるウォルト・フレイジャーとパートナーを結ぶ。
「クライド」の愛称を持ち、1970年から7年連続でオールスターに選出され、75年のオールスターではMVPを受賞した伝説的ポイントガードだ。

彼はアフリカ系アメリカ人という事もあり「CRACK」を好んでおり、自分の足の形に変更して作って欲しいと依頼する。
形だけでなく所々を修正し、1973年に「CLYDE」を発売。
このスウェード素材のシューズはたちまち大ヒットし、生産が間に合わなくなったため、工場を西ドイツからユーゴスラビアに移動するほどだったという。

1979年に契約満了するが、「CLYDE」ロゴを失くしたスウェード素材のシューズを作り続ける。
当時は、現在も使っている「90681」の型番で呼ばれていたが、いつしか「SUEDE」と呼ばれるようになる。

このシューズをスケーターであるスコット・ボーンが着用し、スケートシューズとしてスケーターから支持を得る。

さらには、ヒップホップユニットである「BEASTIE BOYS」が着用したことで、ストリートの市民権を完全に得る事となり、今現在でも知る人ぞ知るスニーカー傑作となった。

|PUMA|
年表

兄弟喧嘩から生まれ
不思議な魅力を持つブランドになるまでの軌跡

'1920

「ダスラー兄弟商会」
設立

1920年、靴製造の会社「ダスラー兄弟商会」を創業。
兄のルドルフが販売を担当し、弟のアドルフは製造を担当。
製造していたシューズはランニングとサッカースパイク。

'1936

ジェシー・オーエンス
着用

アドルフが事前にジェシー・オーエンスに接触し、
ダスラー兄弟商会のスパイクを着用するよう口説いたという。
その後、ジェシーがベルリンオリンピックで陸上4冠獲得。

'1948

|RUDA|
スタート

兄弟喧嘩が原因で|RUDA|と|adidas|に解体。
正確な原因は「両家の秘密」として公表されていないが、
第二次世界大戦での誤解がきっかけとされる。

'1949

|PUMA|
名称変更

|RUDA|の語感が悪かったため、|PUMA |に変更する。
アメリカライオンの「ピューマ」を参考にしたとされる。
しかし、|PUMA |のロゴはチーター。

'1958

「フォームストライプ」
本格導入

シューズサイドにある流線型のラインは、
シューズ内部の足を安定させるために考案。
「プーマライン」とも呼ばれ、トレードマークに。

'1960

アスリート向け
パフォーマンスシューズ開発

キャンパス素材が主流の中、スエード素材のシューズを開発。
その後、「SUEDE」に繋がっていく。

'1973

「CLYDE」
発売

バスケットボール選手ウォルト・フレイジャーと「CLYDE」を開発。
大ヒットし、「SUEDE」に繋がっていく。

'1992

「DISC BLAZE」
発売

ハイテクスニーカーブームにより大注目されたハイテクスニーカー。
独自開発した「ディスクシステム」を採用しており、
靴ひもが要らず変わらないフィット感を実現している。

'1998

|JIL SANDER|
コラボレーション

|JIL SANDER|から「スパイクをショーで使いたい」の依頼がキッカケ。
初作品は、サッカースパイク名作「KING」をアレンジしたもの。

'2000

|PUMA by MIHARAYASUHIRO|
スタート

まだデビューして間もなかった|MIHARA YASUHIRO|とコラボ。
世界的に販売され、両ブランドの認知度を向上した。

'2007

ケリング社
買収される

|GUCCI|などを所有する「ケリング(元PPR)」に買収される。
さらにファッション性の強いデザインのシューズを販売するようになる。

'2008

フセイン・チャラヤン
クリエイティブディレクター就任

1995年に|Hussein Chalayan|でデビューしたキプロス人デザイナー。

|PUMA |
アイテム

兄弟喧嘩から生まれ
不思議な魅力を持つブランドのアイテム

歴史を見ていただいたら分かるが、常に|adidas|の後塵を排してきた。

そのため、|PUMA|はどこか不思議なアイテムを沢山作っており、それが魅力的だ。

そのアイテムたちを紹介する。

スウェード | Suede

参考価格    ¥9,790-

人 気
3/5

1968年に発売したスエードアッパーのトレーニングシューズ。
1973年にスエードをベースにしたシグネイチャーモデル「CLYDE」を発売。CLYDEは、NBAの殿堂入りを果たしたウォルト・フレイジャー氏のニックネームとして使われていた。
その後、「90681」と型番で呼ばれるが、アメリカでは「スエード」と呼び、ヨーロッパでは「ステート」 の名前で知られる呼ばれていた。
初期のヒップホップにおいてBボーイたちから支持され、ニューヨーク・シティ・ブレイカーズやロック・ステディ・クルーといった著名なブレイクダンサーが着用。
1994年にはビースティ・ボーイズがライブでスエードを履いていたことから再び注目を集めた。

ディスクブレイズ|DISC BLAZE

参考価格    ¥17,600-

人 気
2/5

1992年に発表された「ディスクシステム」を搭載したハイテクスニーカー。
足の甲部分に取り付けられた円形のパーツを回し、履いた足に合わせてフィット感を高める。
1990年代に起こった「ハイテクスニーカーブーム」もあり、かなりの人気が出るも1990年代後半からのスニーカーブーム終焉に伴い、人気も下降。
現在は、ゴルフシューズ等で「ディスクシステム」が活用され、|A BATHING APE|等のブランドとコラボし、少しずつストリートでも人気が再燃している。

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