|adidas アディダス|とは、アドルフ・ダスラーが創業したフットウェアブランド。

ドイツで創業し、ドイツと共に世界を席巻して、誰もが憧れるシューズブランドとして確立した。

なぜ世界が|adidas|に熱狂したのか?
どんなアイテムが人気があるのか?
分からない人も多いのではないでしょうか。

深い歴史から、ロゴの違い・人気アイテムや年代の見極め方法まで徹底解説をします。

INDEX

|adidas|
歴史

不可能を可能にする3本線
アスリートから全ての人に愛されるブランドの歴史

1948年に創業した|adidas|は、アスリートが「不可能/目標」を達成するためにあるブランド。

なぜそれをコンセプトにしているか?それは|adidas|が不可能を達成してきたからだ。

それはどういうことか?歴史を紐解きます。

下ばかりを見ている人たちの町

1922年にアドルフ・ダスラー(通称:アディ)が母親の仕事場跡で靴作りをスタートさせ、2年後に兄ルドルフを誘い「ダスラー兄弟商会」をスタートさせる。

アディは昼夜問わず靴作りに熱中し、スポーツが好きだったため、手始めに陸上競技用のスポーツシューズを製作する。

その2年後の1927年には、1日に100足を製造する程に成長する。それをルドルフが販売し大きくしていくが、戦争が2人の仲を引き裂く。

|adidas|と|PUMA|はルドルフとアドルフの2人兄弟から始まり、喧嘩別れした事で2つのブランドが生まれる。

|adidas|と|PUMA|はルドルフとアドルフの2人兄弟から始まり、喧嘩別れした事で2つのブランドが生まれる。

2人はドイツのヘルツォーゲンアウラハという小さな町で生まれ、喧嘩後もこの町に拠点を根ざし、現在も本社はどちらもこの町に健在だ。

そして、この町は「下ばかりを見ている人たちの町」と呼ばれるようになった。

つまり、「どちらの靴を履いているか?」が重要であり、靴で物事を判断する町である。

|PUMA|派は|adidas|派と結婚は出来ないし、|adidas|派は|PUMA|派のレストランで食事も出来ない程だったとか。

この町だけでなく、スニーカーやスポーツシューズ、特にサッカーを舞台に世界中で境界線を作った。

adidasを知らせる「3本線」

兄弟喧嘩により、1948年に「ダスラー兄弟商会」は解散することとなる。

弟のアドルフ・ダスラーは、自分のあだ名「アディ」と名字の「ダスラー」をとり|adidas|をブランド名にする。

また、ダスラー兄弟商会から側面の補強用に2本ストライプを使っていた。
これについては他の靴メーカーも数本のストライプを使うことはしばしばあったが、大抵は黒かダークブラウンだったため、特に目立っていなかった。

ダスラー兄弟商会解散前から、オリンピック出場する選手に履いてもらう事が多かったが、これを証明するのは難しかった。
そのため、カタログなどでシューズの素晴らしさを讃える選手の声などをわざわざ掲載していた。

ストライプを白にしたら、遠くからでもはっきり見えると考えたアディはストライプを白に変更。
また、ダスラー兄弟商会で2本線を使っていたため「3本線」に変更した。

そしてその後、この側面でのブランド主張というものは各ブランドが行うこととなった。
ルドルフは、1958年に|PUMA|で「フォームストライプ」という流線型のラインを入れる。
元々はシューズ内部の足を安定させるために考案されたが、もちろんこちらもブランド判別にも使われた。

その後をほぼ全てのブランドが追うが、現在世界で一番多くのトレードマークとなっているのは|NIKE|の「SWOOSH」だ。
こちらも、世界で一番有名なマークのひとつだが、35ドルで出来たマークだと言われている。

ドイツ人の自信を取り戻す「ベルンの奇跡」

戦前からオリンピック選手にも多く履いて貰っていた。

ベルリン五輪では、黒人金メダリストのジェシー・オーエンスに直接口説いて着用してもらったと逸話も残っている。

「ダスラー兄弟商会」解散後は、|adidas|がオリンピックの選手が着用し、|PUMA|はサッカーW杯の選手が着用することが多くなっていた。

しかし、|PUMA|のルドルフ・ダスラーは、サッカー西ドイツ代表監督のヘルベルガーと関係を築いていたが、アドルフへの劣等感から自ら去る。
それにより、|adidas|が西ドイツ代表選手の足元をサポートすることになる。

1954年のスイスW杯では、当時圧倒的な強さで優勝候補だったハンガリーと決勝で当たることになった。
決勝当日が雨だったため、開発したばかりの滑りやすい芝をグリップする「取り替え式スタッド」スパイクを使用する。
それにより、一次予選では3-8で惨敗したハンガリー代表に3-2で勝利。
ヘルベルガー監督は「この勝利はアディのおかげだ」と勝利の記念写真に靴職人が入るべきだと言い張った。

これにより、敗戦後のドイツに自信を取り戻させた立役者として|adidas|は国内外で確固たる地位を築くことになる。

無料配布というマーケティング

1956年のメルボルン五輪、このオリンピックからスポーツ業界全体を変えてしまう。
しかも、アディの後継者である弱冠20歳のホルスト・ダスラーによってだ。

今までも技術協力をすることでオリンピアンに履いてもらうことによって|adidas|を色んな人に知ってもらうことはあった。

しかし、それはあくまでも普段から関係を持っていたか、気に入って購入し使ってくれるかの2通りによって使用されていた。

ホルストは|adidas|の売上をさらに伸ばすには「3本線」のシューズを、今まで以上のオリンピアンに履いてもらうことだと信じていた。

そこで、小売店を使って、この五輪の為に作った「メルボルン」の無料配布を始めたのだ。

当時の五輪は厳格でアマチュア規制も厳しく、スパイクは一部の選手を除いて自前で購入しないといけなかったが、無償で配ることによって多くのオリンピアンに着用させることに成功する。

ホルスト本人曰く、70人のメダリストが「メルボルン」を履いたという。

このマーケティング手法がスポーツ業界を変えて、さらには|STUSSY|から裏原系ブランドへとつながりアパレル業界にも影響を与えることとなる。

ドイツからフランスへ
「ホルスト・ダスラーの熱意」

メルボルンの一件から発言力が高まると思っていたホルストだが、父アディの「子どもたちには平等にチャンスを与えるべき」という考えから親子喧嘩も多くなり、悶々とする日々を過ごしていた。

そんな中、アディはホルストの難ありな性格を落ち着かせるために、フランスのアルザス地方の工場にホルストを武者修行に出す。

そんな想いとはうらはらに、ホルストは自分の居場所を手に入れたと、水を得た魚とばかりに働いた。
そして、才覚あるホルストと「adidas France」は10年も経たないうちに経営の一切を取り仕切ることとなる。

ホルストも父アディと同じく昼夜問わず働いた。しかし、彼が得意としたのは靴作りではなく、叔父ルドルフが得意とした営業やマーケティングだった。

ホルストがオリンピックをメルボルンで宣伝の舞台にしてから、ローマ・東京と|PUMA|を始めとする各社と宣伝合戦が白熱する。

そして、メキシコシティではオリンピック関係者と取引をして、この宣伝の舞台を独り占めすることとなる。

「アディダス・フランス」が 生み出した
2つの名作

1950年代後半、「テニス」というスポーツが上流階級のスポーツから一般的なスポーツになっていた。

そのような中、プロテニスプレーヤーは2人しかいなかった。
その1人が、ロバート・ハイレットというプレーヤーだ。

ホルストは、このハイレットをパートナーに選び、世界初の革製テニスシューズ作りを開始する。

初めてのレザーシューズということもあり、何度やってもソールが剥がれると試作を繰り返した。
1965年についに完成したが、ハイレットはすぐに引退してしまう。

せっかく作った靴の新たなパートナーとして、ホルストが目をつけたテニスプレーヤーが「ゴジラ」の愛称で呼ばれていたスタン・スミスだ。

1971年に「スタン・スミス」を発売。彼自身の圧倒的な強さもあり、世界中のテニスプレイヤーが履くようになる。

それだけでなく、当時の規約によりシンプルに作られたこのテニスシューズは、学生たちにも愛されるようになる。
そうして、ギネスブックに「世界で最も売れたスニーカー」として登録されている。

もうひとつの名作はバスケットボールで生まれた。

当時のバスケットボールシューズ業界は|CONVERSE|の独壇場だった。彼らのキャンパス製シューズ「ALL STAR」が多くのバスケットボールプレーヤーの足元をサポートしていた。

それに目をつけたのが、ホルストの相談役であるクリス・セヴァーン。
キャンパス製のシューズはホールド感が弱く、選手はいつも足首や膝を痛めていた。

そこで、革製バスケットシューズとして「SUPER GRIP」を発売する。
その後、つま先を守るため貝の形をしたラバーキャップ「シェルトップ」が導入され、1969年に「Super Star」として販売されるようになる。

このバスケットシューズは、サンディエゴ・ロケッツの選手が履き始めた事をきっかけに認知を広げる。
しかし、ロケッツが最下位だった事もあり、広がっては行かなかったが、その後チャンピオンとなるボストン・セルティックスの選手が履いたことにより広まる。
1973年には、プロバスケットボール選手の約85%が|adidas|を履いていたという。これにより参入して数年で、売上の10%以上をバスケットボールシューズで生み出すほどに成長したこととなった。

|adidas|
年表

兄弟喧嘩から生まれ
世界的シューズブランドになるまでの軌跡

'1920

「ダスラー兄弟商会」
設立

1920年、靴製造の会社「ダスラー兄弟商会」を創業。
兄のルドルフが販売を担当し、弟のアドルフは製造を担当。
製造していたシューズはランニングとサッカースパイク。

'1936

ジェシー・オーエンス
着用

アドルフが事前にジェシー・オーエンスに接触し、
ダスラー兄弟商会のスパイクを着用するよう口説いたという。
その後、ジェシーがベルリンオリンピックで陸上4冠獲得。

'1948

|adidas|
スタート

兄弟喧嘩が原因で|RUDA|と|adidas|に解体。
正確な原因は「両家の秘密」として公表されていないが、
第二次世界大戦での誤解がきっかけとされる。
翌年、RUDAは|PUMA|に名称変更。

'1949

「3本線」
使用開始

側面の補強用に使っていた2本ストライプを使っていた。
大抵は黒かダークブラウンだったため、特に目立っていなかった。
ストライプを白にしたら、宣伝に使えるとのことで白に変更。
また、ダスラー兄弟商会で2本線を使っていたため「3本線」に。

'1951

「3本線」
登録商標取得

商標権を持っていたフィンランドのスポーツブランド|KARHU|から、
1600ユーロとウィスキー2本で商標取得する。

'1954

「ベルンの奇跡」
W杯優勝

西ドイツ代表が|adidas|を着用し、スイスW杯優勝。
これを機に国内外で確固たる地位を築く。

'1965

「Stan Smith」原型
発売

1965年にテニスシューズ「Haillet」が発売。
仏テニスプレーヤー「ロバート・ハイレット」の名を冠していたが、
1971年にヒールの素材などを変更し、
同時にアメリカのテニスプレーヤー「スタン・スミス」の名に。
この事をきっかけにアメリカでも圧倒的なシェアを獲得する。

'1969

「Super Star」
発売

1969年にオールレザーのバスケットシューズ「Super Star」発売。
「まるで足に三本線がプリントされているようだ」
とNBAのスーパースター アブドゥル・ジャバーが発言。

'1984

株式会社デサント
日本総代理店

1970年-1983年まではウェアのみの製造・販売。
1984年以降は兼松から販売を引き継ぎ、国内における総代理店となる。

'1986

Run-D.M.C.
契約締結

「俺たちはアディダスを履いて2-5年ストリートに立つ」
と歌った1986年リリースのシングル曲「マイ・アディダス」が大ヒット。
マジソンスクエアガーデンで行ったコンサートを観客が「アディダスのスニーカーを高々とあげる」景色を見たマーケティング・ディレクターは契約を提案した。

'1998

アディダス・ジャパン
設立

1998年2月に株式会社アディダス・ジャパン設立し、
同年12月にデサントとの契約が終了した。

'2003

|Y-3|
スタート

2002年に山本耀司をクリエイティブ・ディレクターとして迎え、
2003年に|Y-3|というブランドをスタートさせる。

'2005

|Reebok|
買収

買収後|adidas|は1兆2500億円の売上規模となり、
首位|NIKE|の年商1兆3700億円に迫る。
ただ、その後も|NIKE|がシェアを広げる結果となり、
約4156億円で買収していたが、2021年約2720億円売却を発表。

'2015

「YEEZY」
スタート

2015年にラッパーのカニエ・ウエストとのコラボラインとしてスタート。
2013年にデザイン料の問題で|NIKE|との契約は破棄され、
その後に|adidas|と新なタッグを組み、「YEEZY」がスタートした。

'2021

|Reebok|
売却発表

2005年に|Reebok|を約4156億円で買収していたが、
収益改善が上手くいかず、2021年約2720億円売却を発表。

|adidas|
アイテム

不可能を可能にする3本線
アスリートから全ての人に愛されるアイテムたち

創業者アドルフ・ダスラーは靴職人出身で、靴の性能ファーストで作られたブランドとして生まれ、|adidas|はたくさんの名作を生んだ。

そのアイテムたちを紹介する。

スタンスミス|STAN SMITH

参考価格    ¥9,889-

人 気
3/5

元々、1965年に発売されたフランスのテニスプレーヤーロバート・ハイレットの名を冠していた「ハイレット」だった。
そのモデルにヒールの素材やサイドの名前の金文字などのディテールが変遷するうちに「ハイレットスミス」に変更され「スタンスミス 」となった。
当時の国際大会の規約により、テニスシューズは派手な配色が出来ず、象徴の3本ラインはパンチングによるさりげない表現であった。

また、ギネスブックに「世界で最も売れたスニーカー」として登録されている事でもお馴染み。

スーパースター|SUPER STAR

参考価格    ¥9,889-

人 気
3.5/5

1960年代から発売していたバスケットシューズ「スーパーグリップ」を1969年に改名。
スーパースターの考案者クリス・セヴァーン氏のインタビューによると「当時はキャンバス製シューズが主流だったため、なじみの無いレザー製のシューズはどのチームも懐疑的だった」。
だが、その履き心地とグリップ力でNBAのスター選手に愛用されるようになり、一般のユーザーも使用するようになる。
その後1980年代半ば、ヒップホップグループ、RUN-D.M.C.のメンバーがスーパースターを愛用してい事で再び注目を集める。1986年リリースのシングル曲「マイ・アディダス」の中で「俺たちはアディダスを履いて2-5年ストリートに立つ」と歌った。その曲が大ヒットし、同年マジソンスクエアガーデンで行ったコンサートで観客がアディダスのスニーカーを高々とあげる景色を見たマーケティング・ディレクターは、創業者の息子ホルスト・ダスラーにグループのサポートを提案。アディダスは広告塔としてRun-D.M.C.と100万ドルの契約を結ぶ。
当時としては、ミュージシャンがスポーツブランドと契約を結ぶことは異例で、その後アディダスの大ヒットがきっかけで、他のメーカーがこぞってヒップホップスターと契約を開始。アディダス・スーパースターは、スポーツシューズとしてのスニーカーが、ストリートカルチャーから火がつき、ファッションアイテムとして認知されるきっかけをつくった1足。

|adidas|
ブランドライン

不可能を可能にする3本線
特徴的なブランドラインたち

|adidas|は世界2位の売上を誇る為、多くの人に愛されるようにいろいろなブランドラインを出している。
さらに、色んなブランドや人を受け入れてコラボレーションして、たくさんブランドラインが生まれた。

そのブランドラインたちを紹介する。

adidas originals|
アディダス オリジナルス

価 格
3/5
人 気
3.5/5

2001年よりスタートした復刻ライン。
1972年から1995年まで「adidas社」のカンパニーロゴだったトレフォイルロゴ(三つ葉のロゴ)を冠にし、アスリートのために開発されたプロダクトの復刻商品から、現在のトレンドを反映させた新作モデルやコラボレーションによるプロダクトまで、幅広い商品展開が魅力。

adidas skateboarding |
アディダス スケートボーディング

価 格
2.5/5
人 気
2.5/5

|adidas originals|の中のスペシャルラインとして2006年にスタートしたスケートボードライン。
アディダス・スケートチーム」に所属するストリートスケーターたち(MARK GONZALEZ、DENIS BUZENITZ、TIM O’CONNOR、SILAS BAXTER-NEALなど)のために作られたが、一般に向けても少量のみの販売。

adidas neo|アディダス ネオ

価 格
1.5/5
人 気
1.5/5

2011年にスタートしたカジュアルライン。
10代から20代前半の若者が毎日履けるということをテーマに、廉価でありながらデザイン・カラーバリエーションに富んだ品揃えで商品展開している。

Y-3|ワイスリー

価 格
4.5/5
人 気
4/5

2001年に|adidas|がデザインしたフットウェアを「Yohji Yamamoto Femme/Homme」のコレクションで扱い、「adidas for Yohji Yamamoto」としてコラボレーションがスタート。
2002年に山本耀司をクリエイティブ・ディレクターとして迎え、スポーツとファッションの融合的ブランドとして「Y-3」が誕生。
「Y」は|Yohji Yamamoto|の頭文字、「3」は|adidas|の3本線を表現。
「スポーツウェアをエレガントでシックなものにしたい、それまで存在しなかったものを創りたかった」という山本耀司の想いが凝縮されたブランド。

YEEZY by KANYE WEST|
イージー バイ カニエ ウェスト

価 格
5/5
人 気
4.5/5

カニエ・ウエストがアディダスとのコラボレーションを2015年からスタート。カニエ・ウエストは、「NIKE AIR YEEZY」というモデルを発表していた。当時、このスニーカーは爆発的な人気を獲得し、海外オークションサイトでは日本で720万円で取り引きされるなど、一つの社会現象となったほどの熱狂ぶりを記録。2013年に契約料の問題で、|NIKE|との契約解消。その後にアディダスと契約を結び、「YEEZY BOOST」と「YEEZY BOOT」というアイテムが何種類か展開。すぐにプレミア化し、社会現象となる。

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