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世界一のブランドNIKEは日本から始まった|asicsとの絆と対立の物語

昨今、多くの人が履いているスニーカー。
当たり前だがそのスニーカーにも深い歴史がある。

まず運動靴としてアスリートが履き始め、スポーツの現場で機能的に進化を重ねた。
その機能美がファッションとして昇華し、ストリートの若者に受け入れられた。
今では売っている靴の70%以上がスニーカーだというデータも出ている。
1900年代の初めには誰も履いておらず、2000年代の初めも35%前後だったというデータもある。

特に日本人はスニーカーを愛し、熱狂した。
その熱狂具合は、スニーカーの中心地がTOKYOになった程。

なぜ日本は、いや世界はここまでスニーカーに熱狂したのか…。
そして、これからも熱狂するのか?
スニーカーの誕生から現在までを振り返る。

いまや世界で最も影響力を持つフットウェアブランド、|NIKE|
そのスウッシュを見ない日はないほど、スポーツからストリート、そしてハイファッションまで、あらゆるシーンを席巻している。だが意外なことに、その原点は日本にあった。

1960年代、オレゴンの若き陸上選手と鬼塚株式会社(現・|asics|)が出会ったことから、物語は始まる。当時、鬼塚のシューズはアメリカ市場にまだ浸透しておらず、その販路を担ったのが後に|NIKE|へと成長する小さな代理店だった。つまり、|NIKE||asics|が手を取り合い、協力し続けていた未来も、決して夢物語ではなかったのだ。

しかし歴史はそうは進まなかった。蜜月関係から対立、そして裁判へと至る――。
世界一のブランドが歩んだ軌跡の裏には、もしも別の未来があったら?というドラマが潜んでいる。

鬼塚「TIGER」誕生
創業者 鬼塚喜八郎とは?

1918年、鳥取県鳥取市。のちに世界的スポーツブランドを生み出す男、鬼塚喜八郎は5人兄弟の末っ子として生まれた。
戦時中に青春を過ごした彼は、鳥取一中に進学し将校を志す。その同級生には、のちに日本プロ野球第1号ホームランを放つ藤井勇もいたという。

将校となった喜八郎は、ビルマ戦線へ赴く上田中尉と出会い、家族ぐるみで親しくなる。
上田は鬼塚家に養子に入る予定だったが、戦地で命を落とすことに。戦後、鬼塚夫妻から「息子の代わりに家を支えてほしい」と頼まれた喜八郎は、神戸へと移り住み養子となった。

商社での勤務を経て、人生を大きく変える出会いが訪れる。兵庫県教育委員会の保健体育課長・堀公平から、「子どもたちがスポーツに打ち込める靴をつくってほしい」と託されるのだ。そして彼の口から放たれた言葉──
健全なる精神は健全なる肉体にこそ宿るべし

このラテン語の格言 “Mens sana in corpore sano” は、後のブランド名の原点となる。鬼塚は「Mens(精神)」を「Anima(生命)」に置き換え、頭文字を組み合わせた。
──そうして誕生したのが ASICS

ただのスニーカーブランドではない。戦後の復興期に「子どもたちに夢を与える靴を」という思いから生まれ、いまや世界を代表するスポーツブランドとなったその背景には、戦争と友情、そして一人の青年の使命感があったのだ。

1949年3月、鬼塚喜八郎は個人事業「鬼塚商会」を立ち上げる。教育委員会の堀公平の力添えで配給問屋の資格を取得し、仕入れ品を配給しながら、靴作りの技術を磨いた。その努力はすぐに結果を結び、同年9月には社員4人で「鬼塚株式会社」を設立。喜八郎は神戸高校バスケットボール部に張り付き、選手たちの動きを研究しながら、バスケットボールシューズの開発に没頭した。

1951年、タコの吸盤にヒントを得た凹型の底を採用した「鬼塚式バスケットシューズ」を発売。工場長がシャレで靴裏に虎マークを刻み、そこからブランド名は TIGER に決定。神戸高校の全国優勝と共に、その名は全国に広がっていった。

しかし、喜八郎はここで満足しなかった。肺結核に苦しみながらも靴作りを続け、1953年にはマラソンシューズの開発に着手する。当時、マラソンでは足にマメができるのは当然とされていたが、喜八郎は「マメを作らせない靴」を目指した。その原因が熱のこもりにあることを突き止め、着地の際に足と中底の間の熱い空気を排出し、地面から離れると冷たい空気が流れ込む構造── エアーベントシステム を開発。後に特許も取得した。

1956年、その革新的な取り組みとスポーツ振興の功績が認められ、TIGERは メルボルンオリンピックのトレーニングシューズ として正式採用される。こうして鬼塚喜八郎の挑戦は、体制も病も超え、世界に羽ばたく一足へと繋がっていったのだ。

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嘘から生まれた「ブルーリボンスポーツ」
NIKE創業者 フィル・ナイトとは?

1962年、オレゴン大学を卒業したフィル・ナイトは、スタンフォード大学のビジネススクールでMBAを取得。そこで彼はひとつの大胆なアイデアを思いつく──「日本のランニングシューズは世界を席巻できる。その可能性をアメリカでビジネスにする」。

卒業旅行を兼ねて日本に向かったナイトの目的地は、すでに目を付けていた 鬼塚株式会社
鬼塚喜八郎はアメリカ市場に興味を持っており、交渉の席を用意していた。

まだ若きナイトは臆することなく、自らを偽りの「ブルーリボンスポーツ」社の代表だと名乗り、大学時代に学んだスニーカーの世界事情を駆使して鬼塚の信頼を勝ち取る。わずか50ドルの前払い金を手に、サンプル提供の約束を取り付けるという快挙──この瞬間が、後の |NIKE|誕生の原点 となった。

約半年の世界旅行を終え、1964年にアメリカに帰国したフィル・ナイトは、ついに ブルーリボンスポーツ」社を設立する。しかし、順風満帆とはいかなかった。以前からアメリカで TIGERの販売を手がけていた会社が販売権を主張したのだ。

再び日本に渡ったナイトは、ついに鬼塚喜八郎と直接対面。ナイトの情熱的な姿に、鬼塚は若き日の自分を重ね合わせる。結果、オニツカはブルーリボンスポーツ社にアメリカでの販売権を認め、アメリカ市場への扉が開かれた──これが後のNIKE誕生への重要な一歩 となる瞬間だった。

ビル・バウワーマン
名作「CORTEZ」開発

|TIGER|のサンプルがアメリカに届くや否や、フィル・ナイトは大学時代の恩師 ビル・バウワーマン に送る。バウワーマンは一目でその靴に魅了され、「契約に加えてほしい」とオニツカとの共同販売を希望。こうして、師弟がアメリカ市場で共に歩み始めることとなった。

バウワーマンは単なる大学コーチではない。1964年東京オリンピックの陸上コーチを務め、1967年には「JOGGING」を出版。競技者だけでなく一般人へのランニング普及の先駆者でもあった。

TIGERにとっても大きな意味を持つ。ブルーリボンスポーツを通じて、単なるアスリート向けシューズではなく、ジョギングブームを牽引する一般ランナーにも目を向けた開発が可能となったのだ7

1967年、ランニング界の第一人者ビル・バウワーマン。その斬新なアイデアを取り入れ、オニツカが開発した一足が「TIGER CORTEZ」だ。クッション性と耐久性を兼ね備えた革新的なランニングシューズは、瞬く間に大ヒットを記録し、後にスニーカー史を語るうえで欠かせない存在となる。

しかし、このシューズには知られざる“名前の攻防戦”があった。当初、1968年メキシコ五輪を意識して「アステカ」と名付ける計画が進んでいたのだ。だが|adidas|が突如として「我々は『アステカ・ゴールド』というスパイクを出す予定だ。もしその名を使うなら法的措置も辞さない」と圧力をかけてきた。世界的ブランドによる強引な主張に、フィル・ナイトとビル・バウワーマンは対抗策を練る。

そこで生まれたのが、アステカ文明を滅ぼした征服者「エルナン・コルテス」から着想を得た新たな名前──「CORTEZ」である。
皮肉にも、アステカを追い出したコルテスが、そのままシューズの名として採用され、歴史に刻まれることとなった。
こうして誕生した「TIGER CORTEZ」は、単なるスポーツシューズを超え、時代のドラマを象徴する存在へと昇華したのだ。

軽量で履き心地の良いデザインは、ランナーのみならず一般層にも受け入れられ、アメリカ市場で注目を集めた。ブルーリボンスポーツとのタッグで、オニツカのブランドはドイツ勢 adidasPUMA に匹敵するポテンシャルを秘めていた。

しかし、順風満帆に見えるその裏には、微妙なズレがあった。オニツカにとって、日本国内市場の成長は喫緊の課題。アメリカ市場への発送が遅れることも多く、ブルーリボンのナイトは焦燥感を募らせる。国境を越えた情熱と現実の壁、双方の思惑が絡み合い、順風満帆だったはずの提携に徐々に暗雲が立ちこめ始めるのだ。

この対立の影が、やがて世界中のスニーカーファンを熱狂させる NIKE誕生 の伏線となる──。

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NIKE誕生
TIGERとの決裂

1969年の年末、鬼塚喜八郎とフィル・ナイトが向き合い、契約更新の交渉が行われた。
ブルーリボン側は「5年以上の長期契約」を望んだが、オニツカは「3年」に固執。
この時点でナイトは、1973年以降、TIGER をアメリカで販売できなくなる可能性を意識することになる。

さらに、市場の拡大を狙う鬼塚が「ブルーリボンスポーツ社の買収」や他企業との契約を模索している噂も耳に入り、ナイトの焦りは増す。人気商品 TIGER CORTEZ も、欲しいサイズが輸入されず、資金繰りも苦しい状況だった。

その苦境の中、日商岩井(現・双日)から資金援助の話が舞い込む。しかし、オニツカ側は配送改善の要請を即座に拒否。担当者の皇(スメラギ)から「他の日本の靴メーカーを紹介しよう」と提案される。

ナイトはすでに最悪のシナリオを想定し、カナダでの自社製靴作り に向けて動き出していた──。

カナダでの自社製造を進めながらも、ブランド名はまだ決定していなかった。候補のひとつ「ディメンション・シックス」に心を動かされつつ、最終的に選ばれたのは、ギリシャ神話の勝利の女神に由来する NIKE

しかし、カナダの工場で作られた初期ロットは品質が不安定で、満足できる出来ではなかった。そこでナイトは、スメラギの紹介を受け、日本ゴム(現・アサヒシューズ株式会社) に製造を依頼することを決定。

こうして、アメリカでの販売を見据えた NIKEの第一歩 が、ようやく揃い始めたのだ

裁判開始!
意外な結果を生み出した嘘

ブルーリボンスポーツが新ブランド NIKE の立ち上げを進めていることを察知したオニツカは、1972年に契約を打ち切る決断を下した。

これを受け、オニツカ側は日本で裁判を提起。さらにアメリカでは、契約違反と人気モデル CORTEZ の商標権侵害を理由に訴訟を起こすという、熾烈な法廷闘争が始まる。

この裁判劇は、単なるビジネスの争いを超え、スニーカー史における一大エピソードとして語り継がれることになる。

|ASICS|版コルテッツ

|NIKE |版コルテッツ

オニツカがCORTEZの商標権侵害で裁判を起こしたものの、フィル・ナイトにとって勝ち目は薄かった。

なにせ、ナイトは「ブルーリボンスポーツ」という名目で契約を結び、実際には嘘の肩書きを使っていたのだ。さらに契約書には「他のブランドのスポーツシューズを輸入してはならない」と明記されており、その条項に明確に違反していた。

この危うい状況にもかかわらず、ナイトは大胆な戦略と情熱で、新しいスニーカーブランド NIKE を世界へと押し出していく──まさにギリギリの勝負が、伝説の始まりだった。

オニツカがCORTEZの商標権侵害で訴えた裁判。しかし決着は意外な形で訪れる。

オニツカ側の担当者が、買収計画や他の企業を探していた事実を隠していたことで、裁判所は不信感を抱き、ブルーリボンスポーツ側の証言を重視。

結果、損害賠償40万ドル(当時の日本円で約1億2,000万円)をオニツカが支払う形で決着となった。

こうして、フィル・ナイト率いるブルーリボンスポーツは、裁判というピンチを乗り越え、後に世界的ブランド NIKE を生み出す土台を確立したのだった。

成長企業の宿命ともいえる資金難。創業期の|NIKE|も例外ではなかった。
大きな夢を掲げながらも、目の前の資金繰りに追われ、次の一歩を踏み出せない危機に幾度となく直面したのだ。
そんな時に支えとなったのが、日本の総合商社「日商岩井(現・双日)」である。彼らは単なるビジネスパートナーではなく、資金面から物流、さらには海外展開の橋渡しに至るまで、NIKEにとって欠かせない後ろ盾となった。

言い換えれば、|NIKE|はアメリカ発のブランドでありながら、日本との深い縁の中で育まれた存在だ。
誕生のきっかけもオニツカという日本の企業との契約であり、成長を支えたのもまた日本の企業。
いまや世界的スポーツブランドとして君臨するNIKEの背後には、こうした知られざる「日本との物語」が確かに刻まれているのだ。

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その後の|NIKE|の活躍は皆さん知っての通りだ。
鬼塚喜八郎がやったようにソールを工夫し、名作「ワッフルトレーナー」を開発し、ハイテクスニーカーとして「エア」を搭載するなど画期的なスニーカーを発売する。

|NIKE||ASICS|が手を取り合う未来は無かったか?

鬼塚喜八郎とフィル・ナイトは、同じ志を持った若者だったのは間違えない。
喜八郎の情熱を参考にし、継承し、オニツカという壁があったからこそ、今の|NIKE|がある。

手を取り合った未来はもっとつまらないものになっていたかもしれない。

この記事の監修者:

Qkaku(キューカク)

株式会社KATOが運営する、アパレルリユースショップ「Qkaku」は、 「挑戦のはじまりを、もっとそばに。」を理念に掲げ、 ファッションの価値を見直し、新たな挑戦を応援するリユースサービスを提供しています。

スタッフには国内大手リユースショップで10年以上の査定実績を持つプロや、 海外バイイング経験者も在籍。確かな目利きとグローバルな視点で、
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