スニーカー年表vol.06_記事見出し画像

昨今、多くの人が履いているスニーカー。
当たり前だがそのスニーカーにも深い歴史がある。

まず運動靴としてアスリートが履き始め、スポーツの現場で機能的に進化を重ねた。
その機能美がファッションとして昇華し、ストリートの若者に受け入れられた。
今では売っている靴の70%以上がスニーカーだというデータも出ている。
1900年代の初めには誰も履いておらず、2000年代の初めも35%前後だったというデータもある。

特に日本人はスニーカーを愛し、熱狂した。
その熱狂具合は、スニーカーの中心地がTOKYOになった程。

なぜ日本は、いや世界はここまでスニーカーに熱狂したのか…。
そして、これからも熱狂するのか?
スニーカーの誕生から現在までを振り返る。

INDEX

いまや世界一のフットウェアブランドである|NIKE|
しかし、そもそもは鬼塚株式会社(現・|asics|)のアメリカ代理店としてスタートした新興ブランドだ。

つまり、|NIKE||asics|が協力し続ける未来の可能性があったわけだ。

その未来が実現できなかったのはなぜなのか?
こまかく紐といていきます。

鬼塚「TIGER」誕生
創業者 鬼塚喜八郎とは?

創業者・鬼塚喜八郎は、1918年に鳥取県鳥取市で坂口家5兄妹の末っ子として生まれる。

戦時中に青春時代を過ごしたため、喜八郎も将校を目指し鳥取一中に入学。
同級生に日本プロ野球で第一号ホームランを打つ藤井勇がいる。

苦難があったものの、無事に将校になった喜八郎は上田中尉と出会い、懇意となる。
上田はビルマ戦線に参加することになるが、鬼塚家に養子縁組する予定だった。
「ビルマに行っている間、鬼塚夫妻を頼む」という上田からのお願いをされる。

戦後に上田の戦死通知が届き、鬼塚夫妻からも「面倒を見て欲しい」との相談もうけ、鬼塚家の養子になるために神戸へ行くことに。

3年ほど働いた商社を退職後、兵庫県教育委員会の保健体育課長であった堀公平から「子供たちがスポーツに打ち込める靴を作って欲しい」との依頼と、「健全なる精神は健全なる肉体にこそ宿るべし」という言葉を受ける。

この言葉が後に誕生する|asics|の由来となる。ラテン語で「Mens Sana in Corpore Sano」というが、Mens(才知、精神)をAnima(生命)に置き換え、頭文字をとり「A・S・I・C・S」と名付けた。

1949年3月に個人事業「鬼塚商会」を立ち上げる。堀の力添えで配給問屋の資格を得て、仕入れ品を配給しながら製造技術の特訓をうけた。

その努力のおかげもあり、同年9月には社員4人からなる「鬼塚株式会社」を設立。
それから神戸高校バスケットボール部に張り付いて、バスケットボールシューズの会社つに乗り出す。

1951年に、タコの吸盤をヒントに凹型の底の「鬼塚式バスケットシューズ」を発売。
工場長がシャレで靴裏に虎マークを入れて気に入り、ブランド名を|TIGER|となりました。
その後、神戸高校の全国優勝もあり、世間に広まっていく。

しかし、それに満足しない喜八郎は肺結核になりながらも仕事に打ち込む。
さらに、1953年にはマラソンシューズの開発を開始。
当時、マラソンは足にマメが出来るのは当然で「マメの出来ない」靴を開発することに決める。
マメができる原因は、熱がこもることだと判明し、「エアーベントシステム」をシューズ開発。
これは、風通しを良くし、着地した時に足と中底の間にたまった熱い空気が吐き出され、足が地面から離れると冷たい空気が流れ込むという空気を入れ替える構造。後に特許を取得する。

1956年には、オニツカのスポーツ振興が評価され、メルボルン五輪のトレーニングシューズとして正式採用される。

嘘から生まれた「ブルーリボンスポーツ」
NIKE創業者 フィル・ナイトとは?

|NIKE|の創始者フィル・ナイトは、オレゴン大学を卒業後スタンフォード大学のビジネススクールでMBA(経営学修士号)を取得。

スタンフォード大学時代に「日本のランニングシューズが世界を席巻し、それをビジネスにする」というアイデアを思いつき、1962年に卒業旅行を兼ねて日本に向かう。

元々目を付けていた鬼塚株式会社へ向かい、アメリカに興味を持っていたオニツカは交渉の席を用意した。
まだ大学を卒業したばかりのナイトは「ブルーリボンスポーツ」社の代表という嘘をついて、大学時代に勉強したスニーカーの世界事情を含め話をして信頼を勝ち得る。
50ドルの前払い金を振り込むこととの見返りで、サンプルを送ってもらうよう約束を取り付ける事に成功した。

約半年の世界旅行をした後にアメリカに帰ったナイトは、1964年に「ブルーリボンスポーツ」社を設立する。

その後、以前からアメリカで|TIGER|の商品を販売していた会社が、アメリカでの販売権を主張した為、日本にまた向かう。
その時に、創業者鬼塚喜八郎と直接会う機会を得る。
鬼塚はナイトの情熱的な姿に昔の自分を思い出し、ブルーリボンスポーツ社のアメリカでの販売権を認めた。

ビル・バウワーマン
名作「CORTEZ」開発

話を少し戻し、|TIGER|からのサンプルが届くと、大学時代の恩師ビル・バウワーマンに送る。
バウワーマンは、|TIGER|の靴を見るなり気に入り、「契約に加えてくれないか?」とオニツカとの共同での契約を望み、恩師と共に歩き出すこととなる。

このバウワーマンは、大学のコーチだけでなく1964年の東京オリンピックのコーチとして参加するなど、陸上競技界では有名人。
さらに後の1966年には「JOGGING(ジョギング)」という健康維持のためのランニングのハウツー本を発売するなど、「競技者」のためだけではなく「一般人」にもランニングを浸透させる第一人者だった。

|TIGER|としても、「ブルーリボンスポーツ」にバウワーマンがいるコトがとても大きかった。
アメリカの市場にチャレンジするだけではなく、一般人が「ジョギング」をするようになっていたアメリカの第一線の人と開発を出来るからだ。

そのバウワーマンのアイデアをオニツカが1967年に「TIGER CORTEZ」として製品化し、大ヒットする。
順風満帆なオニツカとブルーリボンは、その当時業界を席巻していたドイツ企業の|adidas||PUMA|を脅かす存在になるはずだった。

客観的に見れば、進んでいるアメリカ市場・「ブルーリボンスポーツ」を優先すべきとは明白だ。
しかし、オニツカからすると日本国内も成長しており、国内を優先し、アメリカへの商品発送が遅くなるコトも多かった。
そういったコトを引き金に順風満帆な2社にだんだん暗雲がたちこめる。

NIKE誕生
TIGERとの決裂

1969年の年末に、鬼塚喜八郎とフィル・ナイトが契約更新の交渉を行う。

ブルーリボン側は「5年以上の長期契約」を希望したがオニツカ側は「3年」を譲らなかった。
この契約からナイトは「1973年以降、|TIGER|を販売できない」と思うようになる。
さらには、アメリカ市場でもっと売上を上げようとする鬼塚が「ブルーリボンスポーツ」買収の提案や、他の企業を探していることを耳にするように。

また、人気の「TIGER CORTEZ」のいいサイズがあまり輸入されず、手元のお金を作るのも困難な状況になっていた。

資金調達が難航している時に、日商岩井(現・双日株式会社)を紹介してもらい、資金援助をしてもらえる事に。

その後、日商岩井はオニツカ側にブルーリボンスポーツ社への配送を改善してほしい旨を伝えるが、すぐに拒否。
その状況を見た担当者の皇(スメラギ)から、と他の日本の靴メーカーを紹介するという提案を受ける。

ナイトは、すでに最悪な事態を想定してカナダでの靴づくりをスタートさせていた。

ブランド名も「ディメンション・シックス」と迷いながら|NIKE|にする事も決定。
しかし、カナダの工場の品質が悪かったため、スメラギに紹介してもらい日本ゴム(現・アサヒシューズ株式会社)に作ってもらうコトにする。

裁判開始!
意外な結果を生み出した嘘

ブルーリボンスポーツが他のブランドである|NIKE|を始めたことを察知した鬼塚は1972年に契約を終了させる。

オニツカが日本で裁判を起こしたことをキッカケに、アメリカで契約違反と「CORTEZ」の商標権侵害で裁判を起こす。

|ASICS|版コルテッツ

|NIKE |版コルテッツ

裁判を起こしたものの、フィル・ナイト自身も勝ち目の少ない裁判であることは明白だった。

なんせ、嘘の「ブルーリボンスポーツ」で得た契約で、さらに契約書に書いていた「他のブランドのスポーツシューズを輸入することを禁ずる」という文に違反していたからだ。

しかし、裁判は意外な形で決着する。

オニツカ側の担当者が、買収計画や他の企業を探していた事実を隠した。その事により、裁判所が不信に思い、ブルーリボンスポーツ側の証言の方を重視した。
結果としては、「CORTEZ」の商標権侵害による損害賠償40万ドル(日本円で約1億2,000万円)をオニツカがブルーリボンスポーツに支払うコトで決着する。

その後の|NIKE|の活躍は皆さん知っての通りだ。
鬼塚喜八郎がやったようにソールを工夫し、名作「ワッフルトレーナー」を開発し、ハイテクスニーカーとして「エア」を搭載するなど画期的なスニーカーを発売する。

|NIKE||ASICS|が手を取り合う未来は無かったか?

鬼塚喜八郎とフィル・ナイトは、同じ志を持った若者だったのは間違えない。
喜八郎の情熱を継承し、オニツカという壁があったからこそ、今の|NIKE|がある。

手を取り合った未来はもっとつまらないものになっていたかもしれない。

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