【買取強化中】ストリートの原点STUSSYとは? 歴史・名作アイテム・高騰理由を解説

今やファッションの文脈において「ストリート」は欠かせないキーワード。その源流のひとつが、1980年代にショーン・ステューシーの手によってカリフォルニアで産声をあげた|STUSSY(ステューシー)|だ。

大胆な手書きロゴに、サーフ・スケート・ヒップホップなどを横断する雑多な感性。そして、ファッションという枠組みを軽々と飛び越えた“ムーブメント”として、世界中の若者を魅了してきた。

しかし、名前は聞いたことがあっても、意外とその正体を知らない人も多いのでは?
今回は、そんなSTUSSYの歴史・デザイン・年代別の特徴まで、あらためて徹底解剖。ストリートの原点を再確認する旅へ、ようこそ。

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歴史

ストリートの原点
原点にして永遠のブランドの歴史

ストリートは、
ここから始まった。

STUSSY(ステューシー)──原点にして永遠の象徴。

「ストリートウェア」という言葉がまだ存在しなかった1980年代初頭。
サーフボードビルダーだったショーン・ステューシーが、自らのサインをTシャツに刷ったことが、すべてのはじまりだった。
だが、STUSSYが生んだのは、単なるファッションジャンルではない。
それは、“文化としての服”という概念だった。

たとえば──
・サーフ、スケート、ヒップホップを越境し、「その街で認められたオシャレな人に服を着てもらう」というマーケティング方式。
・ブランドの“ロゴ”をファッションの主役に引き上げた、象徴的なグラフィック戦略
・COMME des GARÇONSやDiorとも並んで語られる、“ストリートから世界へ”という成功モデルの原型。

今でこそ当たり前になったこうした手法も、すべてはSTUSSYが“最初に”始めた挑戦だった。

「カッコいい」は、スタイルじゃなく“生き方”で証明する。
その信念こそが、40年以上経った今でもSTUSSYが世界中で愛され続ける理由だ。

ストリートの歴史を語るなら、この名を抜きには語れない──。
STUSSY、それは原点にして永遠。

カルチャーは、“サイン”から生まれた。

1954年、カリフォルニア。
ショーン・ステューシーというひとりの男が、この世に生を受ける。
舞台はラグナビーチ。彼はそこで、サーフボードのシェイパーとしてキャリアをスタートさせた。

サーフボードを削り、形を与え、自ら販売する日々──
そんな中、1979年。彼は自分の名前をボードにサインとして入れるという、ささやかながら大胆な一手を打つ。

これが後に「ショーンフォントロゴ」と呼ばれる、あの象徴的な筆記体ロゴの誕生だった。

ロゴは、瞬く間に評判を呼んだ。
まるでサーフボードそのものに“魂”が宿るようだと。

気づけば、彼の作品にはすべてそのサインが刻まれていた。
そして1980年、ショーンはサーフボードの“プロモーション用”として、Tシャツやショーツにこのロゴをプリントし、販売を始める。

だが──それが「ファッション」になるとは、まだ誰も気づいていなかった。

つまり、STUSSYの出発点はこうだ。
「サーフィン」という文化の上に、「ショーンという個人の感性」が、
たったひと筆のサインとして刻まれたこと。

このたった一文字から、世界中のストリートと感性を揺さぶるムーブメントが生まれた。

そう、STUSSYの原点は、波を愛した一人の男の手描きの名前だったのだ。

当初、それは単なるブランド識別のための印にすぎなかった。
だが1982年、彼はある”遊び心”あるアイデアを思いつく。

アクション・スポーツ・リテーラー・ショー(ASR)という展示会で、
黒いTシャツにそのサインロゴをシルクスクリーンプリントし、販売したのだ。

結果は予想を超えた。

わずか数日で、サーフボード24本とTシャツ1,000枚を完売

「これはもう、“波”じゃなくて、“うねり”だ」と誰もが感じた瞬間だった。

ロゴTシャツは単なるプロモーションから、“着るアイデンティティ”へと昇華していく。
この頃から、ストリートカルチャーの未来が確実に動き始めていた。

シェイパー時代のショーン・ステューシー。当時16歳だった。

彼のラストネームを、独特の筆記体で描いたサイン。
これが、後に“ショーンフォント”と呼ばれるSTUSSYの原点だ。

“署名”がブランドになり、“仲間”がムーブメントになった──。

それまでは、あくまでローカルな「遊び」だった。
1984年、ショーン・ステューシーは会計士フランク・シナトラJr.と手を組み、STUSSYを法人化。
ここから、ストリートの歴史が一気に動き出す。

1986年、世界へ。STÜSSYが動き出す。
ショーン・ステューシーはこの年、ニューヨークとカリフォルニアにショールームを開設し、本格的にグローバル展開をスタートさせる。
そして同時期、日本でもSTÜSSYはその歩みを始める。

そんなタイミングで、ショーンは一人の日本人と出会う──藤原ヒロシ
のちに“裏原宿”というムーブメントを牽引する伝説的存在だ。

雑誌『宝島』の取材現場で交わされた会話が、静かに火を灯した。
やがてそれは90年代の東京カルチャーを大きく揺るがす“導火線”となる。

そして、もうひとり。
この時期、STÜSSYはある日本人の活動を静かにサポートしていた。
彼の名前は──豊田貢(とよだ・みつぐ)。
その物語は、また次の章に語るとしよう。

1987年、仲間という証明「IST」。
“INTERNATIONAL STUSSY TRIBE(国際的なSTUSSY族)”。
略してIST。それは、ただの名称ではない。
価値観や感覚を共有する者たちの“証”だった。

ショーンは、ミュージシャンやスケーター、DJ、アーティストなど、
同じ匂いのする「仲間たち」のためだけに、ISTスタジャンを制作。
ネーム入りのジャケットは、招待状のように身近な者へと手渡されていった。

その内輪感が、むしろ憧れの対象になる。
“誰もが買えるものじゃない”からこそ、欲しくなる。
STUSSYは、単なる服ではなく「参加証明」になっていった。

「その街で認められたオシャレな人に服を着てもらう」というマーケティング方式は、藤原ヒロシを通じて、裏原系ブランドに継承される。

1991年、東京。この都市が、世界のストリートカルチャーの交差点になる日が来るなんて、誰が想像しただろうか。その夜、ニューヨーク、ロンドン、東京の“トライブ”が一堂に会した。
STÜSSYが築いた国際的ネットワーク「International Stüssy Tribe(IST)」の初公式集会──
それは単なるパーティーではなく、ストリートの未来を方向づける“交歓と爆発”の瞬間だった。
カルチャーのキーパーソンたちが、同じフロアに立った。
Jules Gayton(NY)、Michael Koppleman(UK)、Albee(LA)、そして藤原ヒロシ(Tokyo)。
世界のローカルシーンを牽引するリアルな現場主義者たちが、一夜のもとに集まって語り、笑い、音楽をかけ、街を歩いた。ただの“イベント”じゃない。これはムーブメントの核だった。
そこに集まった誰もが、マーケティングなんて意識していなかった。共鳴しあう“匂い”だけで繋がる世界的ネットワーク。それがISTだった。
この集会では、参加者ひとりひとりにネーム入りのISTジャケットが配られた。それはロゴ以上に強い“帰属”と“共犯”のサイン。地下の者たちだけが知る、共鳴の証明書。

日本人で唯一、“Tシャツになった男”。

1986年STÜSSYは、とある日本人の少年のスポンサードを開始。
その少年の名は、豊田貢(とよだ・みつぐ)。
当時、豊田は高校を卒業したばかりだった。

その後、彼の写真を使われたTシャツも作成されるが、Tシャツに使われたのは、彼が11歳の頃に撮られたポートレート。

STÜSSYの黎明期を象徴するスペシャルヴィンテージとして知られ、
日本では俳優・モデルとして知られるムラジュン(村上淳)が愛用していたことでも話題に。
OLD STÜSSYを語る上で欠かせない、伝説的なアーカイブピースとなっている。

豊田は自身のInstagramで、このフォトTシャツを娘に着せて登場。
かつて世界中に配された“少年の顔”が、今は父としての茶目っ気と愛情を纏い、新たな意味を帯びている。

1983年、当時高校1年生の豊田は、全日本スケートボードチャンピオンシップで優勝。
そこから89年までの6年間、国内のトップスケーターとして君臨し続ける。
10代の間にすでに“日本のスケート界を代表する存在”となっていた。

1985年には全米プロアマオープンに2年連続出場。
“プロ”と“アマチュア”が同じ土俵に立つその舞台で、
世界のスケーターたちと滑る彼の姿は、すでに日本という枠を飛び越えていた。

そして1986年、STÜSSYとの出会いが訪れる。
SURFERやTHRASHERといったアメリカのストリート/ボードカルチャー誌に登場し、
グラフィックTシャツ、ポスター、サングラス広告などに起用される中、
彼の少年時代の写真は、Tシャツのグラフィックとして採用された。

日本人で唯一、“Tシャツになった男”──その異名が生まれた瞬間だ。

1988年には、アメリカの老舗スケートブランドSANTA CRUZより、
JIM PHILLIPS(ジム・フィリップス)デザインによるシグネチャーデッキをリリース
世界のスケートチームと共にトリップを重ね、“滑り”を通じてカルチャーを旅する日々を送った。

翌1989年、コンテストシーンから退くと、
オーストラリアを巡るスケートパークトリップへ。
“勝負”の場から“自由”な旅へ──滑ることそのものを見つめ直す時間だった。

そして帰国後の1990年、彼は新たなフィールドに足を踏み入れる
それがスノーボードだ。

翌1991年には、わずか1年足らずで全日本ハーフパイプコンテスト準優勝
当時国内でまだ黎明期にあったスノーシーンで、その名を刻む。
そして名門Burtonと契約。スケート同様、再び世界とつながるステージに立った。

STÜSSYが彼を起用した理由は、おそらく“スキル”だけではなかっただろう。
その11歳のポートレートが持っていたもの──
あどけなさと、冷めたような静かな鋭さ。
ストリートに生きる者の孤独と、確かな強さ。

それは、STÜSSYというブランドが1980年代に持っていた“空気”そのものだった。
波乗りでも、滑走でもない。“ストリート”を生きることのリアリティ。
Tシャツは、まさにそれを象徴するアートピースになった。

豊田貢。
スケート、スノー、そしてカルチャーの交差点を、誰よりも自然体で滑ってきた男。
Tシャツの中で静かにこちらを見つめる彼の視線は、
時代に媚びない強さと、“今ここにいる”という実感を、いまも放ち続けている。

STÜSSYとSUPREME、伝説の接点。

当時のニューヨーク・ストリートシーンの最前線を知る者なら、
「UNION NYC」の名前を知らないはずがない。

1989年、そのセレクトショップの棚にはすでにSTÜSSYが並んでいた。
ファッションとカルチャーを繋ぐ“新しい何か”の匂いを感じさせる店だった。

その店のカウンターに立っていたのが、ジェームス・ジェビア(James Jebbia)。
後に|SUPREME|を立ち上げ、カルチャーを一変させる男である。

ショーン・ステューシーは、この店とオーナーのセンスに強く惹かれた。
彼はしばしばUNIONに足を運び、時間をかけて語り合った。
商品ではなく、“空気”を共有するような対話だった。「この男に任せたい」と思ったのは、きっと自然な流れだったのだろう。

1991年、ショーンはニューヨークにSTÜSSYのショップを開くことを決意。
その立ち上げを託したのが、まさにジェームス・ジェビアだった。

その熱気は英国BBCの取材を呼び、店長としてカメラの前に立ったのはジェームス・ジェビア――後のSupreme創業者だ。
彼は語る。「コレクターは多いですね。10色あれば、全色買う人もいる」。STÜSSYは、ただの服ではなく、カルチャーそのものだった。

1994年、ジェームス・ジェビアは|SUPREME|を設立し、STÜSSYチームは解散。
しかし2人の友情は今なお続く。

|SUPREME|のプロダクトにSTÜSSYの影響が色濃く感じられるのは偶然ではない。例えば、STÜSSYがかつて人気を博した、|CHANEL|のロゴをサンプリングしたグラフィック。
そのカルチャーへの挑発的な姿勢を踏襲するかのように、|SUPREME|は|Louis Vuitton|のモノグラムを用いたスケートデッキを発売するなど、既存のブランドコードを再解釈するアプローチを続けている。

ルーツを知れば、今の|SUPREME|がただのストリートブランドでないことがよく分かる。そこにはSTÜSSYが築いたカルチャーと、それを受け継いだジェームスの確かな美学が息づいている。

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ショーンの退任、そして“日本”へのシフト

1996年、|STÜSSY|は創業以来、最も苦しい局面を迎える。ブランドは過去最低の売上を記録し、その最中に創業者ショーン・ステューシーは突然の退任を発表。
「会社との対立ではなく、家族と過ごす時間を優先したい」と語った彼の姿勢は、その後表舞台から遠ざかる生き方を見ても明らかだ。

ショーンの退任後、ブランドの指揮を執ったのは、もう一人の創業者フランク・シナトラJr.。アートディレクターにはポール・ミルトマンが就任し、体制は新たなフェーズへと移行する。

当時のアメリカでは、ヒップホップ・カルチャーの台頭とともに、|FUBU|や|Triple Five Soul|など、アーバン系ブランドが勢いを増していた。ラグジュアリーとストリートが交差する新たな流れの中で、STÜSSYのプレーンなストリート感は埋もれがちだったのだ。

だがその一方で、海を越えた“日本”では、全く異なる現象が起きていた。裏原宿シーンが最盛期を迎え、NIGO®や高橋盾、藤原ヒロシといったキーパーソンたちがカルチャーの中心に。特に藤原ヒロシは|IST=INTERNATIONAL STÜSSY TRIBE|の中核メンバーとして深い関わりを持ち、STÜSSYは日本の若者たちにとって憧れの象徴となっていた。

フランク・シナトラはその流れをいち早く察知し、アメリカ市場から一歩引くかたちで、日本を中心としたグローバル戦略へと舵を切る。1990年代後半から2000年代初頭にかけて、日本でのSTÜSSYの人気はまさにピークを迎えることになる。

ショーン・ステューシー退任後の物語

ショーンは退任後、家族と共にハワイ・カウアイ島に移住。
ローカルなサーフライフを楽しみながらも、創造の火は消えていなかった。自身でサーフボードをシェイプし、アートピースのようなプロダクトを制作。ライフスタイルに根ざした、原点回帰ともいえる創作活動を静かに続けていた。

そして2011年、自身のルーツと思想を現代に落とし込んだ新ブランド|S/DOUBLE(エスダブル)|を立ち上げる。洋服・サーフボード・アートを横断するようなプロジェクトで、マスを狙わず、選ばれた場所・人々の中で静かに展開された。

一方、ショーン不在のSTÜSSYは一時迷走するも、日本での支持の強さを背景に再浮上を図る。2000年代初頭には裏原宿カルチャーとの連携を強め、|NEIGHBORHOOD|や|BAPE|、藤原ヒロシらとの交流・コラボレーションが続く。

グローバルではコラボを起点に存在感を回復し、|NIKE|や|CONVERSE|との別注、KawsやParraなどのアーティストとの協業で“カルチャーの交差点”としての立ち位置を取り戻していった。

2010年代にはストリートファッションが世界を席巻し、STÜSSYもそのオリジネーターとして再評価され始める。若手チームによるアートディレクションでビジュアルも一新され、ルックやショップは洗練された都市感覚を纏うように。

2020年には創業40周年を記念して、ショーン本人がDIORのキム・ジョーンズとのコラボで電撃復帰。ステューシーらしい手書きの筆記体ロゴが、ラグジュアリーなシルエットの上で再び世界中を駆け巡った。

今回のコラボレーションは、キムが|STUSSY|の大ファンだったことから実現。
「ティーンエージャーの頃、私は頭のてっぺんから爪先まで『ステューシー』のアイテムを身に着けていた。本当に、本当に、本当に大好きで、もはや取りつかれているかのような勢いで買っていた。ショーンが描く文字は独自のものであり、それはアートだと思う。彼のようなアーティストと協業できて、とても光栄だ」と語った。

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年表

ストリートの原点
原点にして永遠のブランドの軌跡

'1980

|STUSSY|
スタート

ショーンは、1979年からサーフボードにサインを入れて販売。
そのロゴが人気となり、Tシャツやショーツを販売し始める。
その後1984年、会計士フランク・シナトラとともに会社化する。

'1986

ショールーム開設
日本展開開始

1986年には、ニューヨークとカリフォルニアにショールームを開設。
そのタイミングで日本での展開をスタート。
同年、藤原ヒロシと雑誌「宝島」の取材で出会う。

'1987

ISTスタジャン
製作開始

INTERNATONAL STUSSY TRIBE」の略で「仲間」という意味。
ミュージシャン、スケーター、DJ、アーティストなど
互いによく似た感性の持ち主を「IST」と呼び、
チームジャケットとして製作し、
身近な仲間内にはこのジャケットにネームの入った物が配られた。

'1991

ニューヨーク
ショップオープン

「UNION NYC」のジェームス・ジェビアがショップを立ち上げる。
そのジェームスこそ、その後|Supreme|を立ち上げる。

'1996

ショーン・ステューシー
退任

1996年、ショーンは退任する。
「会社との対立が原因では無く、家族と過ごす時間を増やす事が目的」。
退任後、共同創業者であったフランク・シナトラがブランドが率い、
ポール・ミルトマンがアートディレクターに就任。

'2001

カスタムメイド・シリーズ
スタート

L.A.チャプトが2001年からはじめたシリーズ。
過去のデザイン等をアーティストやクリエイターたちに蘇らせたものや、
オリジナルデザインもリリースしている。

'2020

|Dior|
コラボコレクション

ショーンが|Dior|とのコラボレーションコレクションを発表。
メンズディレクターのキム・ジョーンズとの親交により、実現。

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年代判別

ストリートの原点
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1980年代初期、創業期を表す希少なタグ。このタグは、主にシャツ類に使用されており、極めて入手困難だ。下部にはシンプルにサイズ表記のみ。この頃からすでに、ブランドを象徴する「ショーンフォント」が使用。

タグの下にもう1枚タグが付く2枚タグタイプ。写真は|Hanes|ボディがモデル。1980年代後半まで、Tシャツは社外製を使っていた為、「タグなし」「黒タグ2枚(通称:後付けタグ)」「サテンタグ」などがある。

黒タグの中でも、最も流通数が多いとされるデザイン。92年以降、タグ右上に®が追加された仕様が登場。シンプルながらも完成されたこのデザインは、STUSSYの黄金期を象徴するパーツのひとつとして、コレクターの間で高い支持を集めている。

2年間のみ使われたと言われる通称「白タグ」。一般的にはこの「白タグ」までがショーン・ステューシー在籍時のモデルとされる。表側には、「ブランド名」「サイズ」「生産国」裏側には、「素材」「洗濯表示」が記載されている。 これ以降のタグはこの表記になる。

1990年代中頃から登場する、通称「紺タグ」。4種類以上存在するが、短期的に展開されている為、明確な年代を判別する事が難しい。このタグは主にTシャツに使用され、オーストラリア製なども存在する。

バータグ、赤青タグ、2色タグ、3色タグ──さまざまな愛称で呼ばれるが、総称して「紺タグ」として知られるのが一般的。呼び名の多さは、それだけ多くのファンに親しまれてきた証とも言える。

「紺タグ」の中でも一番イメージが付きやすいタグ。Tシャツやスウェットといった定番アイテムに多く見られ、世紀末に展開されたSTUSSYを象徴するタグ。

2000年代に突入すると、ステューシーはタグデザインを一新。銀色の生地にネイビーの刺繍でロゴを施した、通称「銀タグ」が登場する。この辺りから、中国製のものも見られるようになる。

2001年からはまたもや紺タグに回帰。2002年までは下部に「MADE IN USA」と記載されているタグが確認されており、2003年以降についてはその表記が表面から消える事となる。

|STUSSY|
デザイン

ストリートの原点
原点にして永遠のブランドのデザイン

ショーン・ステューシーが自身のサーフボードに描いていた手書きのサインをもとに生まれたロゴデザイン。ラフで自由な筆記体は、80〜90年代のストリートカルチャーに大きな影響を与え、ブランドの象徴として定着。後のストリートブランドにも多大な影響を与え、反体制的かつ個性的なスタイルの象徴として、今なお多くの人々に支持され続けています。

ショーン・ステューシーが手がけた「Stüssy」のもう一つの象徴的ロゴで、手書き風の「ショーンフォントロゴ」に対し、ゴシック体をベースにした力強くシンプルなタイポグラフィが特徴です。Tシャツやキャップなどのアイテムに多用され、より普遍的でブランドの「ベーシックライン」を象徴する存在として定着。ショーンフォントが個性やカルチャーを表すのに対し、ストックロゴはStüssyの信頼性やブランド性を担保する役割を果たしました。

1980年代後半にスタートした伝説的なグラフィックシリーズで、ブランドの世界的広がりとストリートカルチャーの多様性を象徴するデザインです。ロゴの下に「NEW YORK」「TOKYO」「LONDON」「PARIS」「LOS ANGELES」など、主要都市の名前を並べたスタイルが定番で、グローバルな視点とローカルカルチャーの融合を表現。音楽ツアーやバンドTシャツを彷彿とさせるデザインは、当時のストリートシーンに強烈なインパクトを与え、現在もStüssyの名作として高く評価されています。

ブランドを象徴する代表的なアイコンのひとつで、ビリヤードの“8番ボール”をモチーフにしたシンプルかつインパクトのあるデザイン。1990年代初頭から使用され、ストリートの“運”や“偶然性”、そしてアンチルールな精神を象徴する存在として人気を集めました。Stüssyのロゴと組み合わされたデザインは、Tシャツやキャップなどで展開され、今なおコレクターズアイテムとして高い支持を受けています。

2つの“S”を左右対称に組み合わせたデザインで、高級ブランド・シャネルの“ダブルC”ロゴを想起させることからその名で呼ばれています。このロゴは、ストリートブランドでありながらハイブランドへのオマージュやアイロニーを込めた象徴的なグラフィックとして、1990年代のStüssyで人気を博しました。シンプルながらも強烈なメッセージ性を持ち、カルチャーの境界を越えるStüssyらしさを体現した名作ロゴです。

ブランドの頭文字「S」の上に王冠をあしらったグラフィックで、90年代のアイテムを中心に登場した象徴的なデザインです。このロゴには、「ストリートの王者」「自分たちの文化に誇りを持つ」といった意味合いが込められており、当時の若者たちに強い共感を呼びました。ショーンフォントやエイトボールと並ぶ人気グラフィックの一つで、Stüssyの自由で反骨的な美学と、独自のカルチャー的地位を表現しています。

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この記事の監修者:

Qkaku

株式会社KATOが運営する、アパレルリユースショップ「Qkaku」は、 「挑戦のはじまりを、もっとそばに。」を理念に掲げ、
ファッションの価値を見直し、
新たな挑戦を応援するリユースサービスを提供しています。

スタッフには国内大手リユースショップで10年以上の査定実績を持つプロや、 海外バイイング経験者も在籍。
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