昨今、多くの人が履いているスニーカー。
当たり前だがそのスニーカーにも深い歴史がある。

まず運動靴としてアスリートが履き始め、スポーツの現場で機能的に進化を重ねた。
その機能美がファッションとして昇華し、ストリートの若者に受け入れられた。
今では売っている靴の70%以上がスニーカーだというデータも出ている。
1900年代の初めには誰も履いておらず、2000年代の初めも35%前後だったというデータもある。

特に日本人はスニーカーを愛し、熱狂した。
その熱狂具合は、スニーカーの中心地がTOKYOになった程。

なぜ日本は、いや世界はここまでスニーカーに熱狂したのか…。
そして、これからも熱狂するのか?
スニーカーの誕生から現在までを振り返る。

INDEX

vol.05で解説した通り、|adidas||PUMA|は元々兄弟で会社をしていたが、戦時中の勘違いから喧嘩をしてそれぞれの道を歩み始めた。

そして、それは2代目である2人の息子たちも引き続き闘争に明け暮れ、ドイツの小さな村だけの話ではなくなるのだ。

そんな「第2次ダスラー大戦」を紐解きます。

「3本線」の誕生
シューズの広告化

兄弟喧嘩により、1948年に「ダスラー兄弟商会」は解散することとなる。

弟のアドルフ・ダスラーは、自分のあだ名「アディ」と名字の「ダスラー」をとり|adidas|をブランド名にする。

また、ダスラー兄弟商会から側面の補強用に2本ストライプを使っていた。
これについては他の靴メーカーも数本のストライプを使うことはしばしばあったが、大抵は黒かダークブラウンだったため、特に目立っていなかった。

そのため、ダスラー兄弟商会解散前からオリンピックに出場する選手に履いてもらう事が多かったが、ダスラーの靴だということを証明するのは難しかった。
そのため、カタログなどでシューズの素晴らしさを讃える選手の声などをわざわざ掲載するなどして世間に知らしめていた。

そこでアディは、ストライプを白にしたら遠くからでもはっきり見えると考え、ストライプを白に変更。
また、ダスラー兄弟商会で2本線を使っていたため「3本線」に変更した。

左が|adidas|のスリーストライプ。右が|KARHU|の1952年ヘルシンキ五輪で使用されたというスパイク。
商標権の獲得は1951年とされているが、1950年前半まで使われており、その後「Mロゴ」に変更されている。

1951年には、商標権を持っていたフィンランドのスポーツブランド|KARHU|から、
1600ユーロとウィスキー2本で商標取得する。

これにより、「その道を極めた人=トップアスリート」に履いてもらうことによって、一般人も一眼で認知できる状況が出来上がった。

さらに、1954年にはアメリカで世界初のカラーテレビの放送が開始。

全ての環境が整ったなかで、1人の男がメルボルンの地で革命を起こす。

ホルストの革命
スニーカー商業化の始まり

1956年のメルボルン五輪、ひとりの若者がスポーツ業界全体を変えてしまう。
少年の名は、「ホルスト・ダスラー」。アディの後継者である弱冠20歳の若者だ。

ホルスト・ダスラー 【adidas FRANCE創業者】
1936年生まれ。|adidas|創業者アドルフ・ダスラーの長男。|adidas|のフランス支社を立ち上げ、独特なマーケティングと名作を生み出し、フランス側が実質的な支配をする。その後、オリンピックやサッカーW杯のスポンサーを管理するようになり、スポンサーシップの父と呼ばれる。51歳で癌のために亡くなる。

今までも技術協力をすることでオリンピアンに履いてもらうことによって|adidas|を色んな人に知ってもらうことはあった。
しかし、それはあくまでも普段から関係を持っていたか、気に入って購入し使ってくれるかの2通りによって使用されていた。

ホルストは|adidas|の売上をさらに伸ばすには「3本線」のシューズを、今まで以上のオリンピアンに履いてもらうことだと信じていた。

そこで、小売店を使って、この五輪の為に作った「メルボルン」の無料配布を始めたのだ。

当時の五輪は厳格でアマチュア規制も厳しく、スパイクは一部の選手を除いて自前で購入しないといけなかったが、無償で配ることによって多くのオリンピアンに着用させることに成功する。

ホルスト本人曰く、70人のメダリストが「メルボルン」を履いたという。

 

息子たちの旅立ち
フランス・オーストリアでのそれぞれの闘い

メルボルンの一件から発言力が高まると思っていたホルストだが、父アディの「子どもたちには平等にチャンスを与えるべき」という考えから親子喧嘩も多くなり、悶々とする日々を過ごしていた。

そんな中、アディはホルストの難ありな性格を落ち着かせるために、フランスのアルザス地方の工場にホルストを武者修行に出す。

そんな想いとはうらはらに、ホルストは自分の居場所を手に入れたと、水を得た魚とばかりに働いた。

ホルストも父アディと同じく昼夜問わず働いた。しかし、彼が得意としたのは靴作りではなく、叔父ルドルフが得意とした営業やマーケティングだった。

靴作りに情熱を燃やした父アディ。その靴を世界に売り込む才能を持っていた息子ホルスト。
お互いに尊敬はしつつも、お互いに分かり合えない部分があり、1959年に「adidas France」を立ち上げ、ドイツ対フランスの闘いにも発展する。

一方、|PUMA|にも親子闘争が巻き起こる。
創業者ルドルフは、短気な性格と弟アディへの被害妄想からか攻撃的な一面を持ち合わせていた。
そのため、息子アーミンには厳しく接しており、完璧な結果を求めていました。そのひとつとして、10歳離れた次男ゲルトに対しては優しく接し、不健全な競争心を煽っていた。

我慢の限界に達したアーミンは、|adidas|のホルスト同様に父の元を旅立つことに決める。
1961年にオーストリア・ザルツブルクにある工場を買い上げ、「PUMA Austria」を開始。
しかし、ルドルフはそれをよく思わずオーストリアの銀行への保証はもちろん、一切の援助を拒否した。

|adidas||PUMA|のふたつの親子抗争の決着は、父親の老衰で決着する。
|PUMA|は、息子アーミンが飛び出して3年で呼び戻し、父ルドルフに代わり経営をすることとなる。

|adidas|の代替わりは先になるが、ホルスト率いる「adidas France」が本家を上回る勢いで成長していた。

商業化と反発
メキシコシティ五輪

メルボルン五輪から、ローマ・東京と商業化は白熱する。
|PUMA|も今ではお馴染みの「フォームストライプ」を入れるようになり、対抗する。

しかし、1968年のメキシコシティ五輪で、フランスの「3本線」が五輪を支配をすることなる。

ホルストは、五輪関係者を懐柔し、|adidas|以外の製品を流通させないよう独占契約をしていたのだ。
それは|asics|の前身である|TIGER|が選手を煽動して販売できるようにしたり、|PUMA|の靴を持っているだけで警察に連行されるほどのレベルだったという。

メキシコシティ五輪でさらに|adidas|の地位が揺るがないものへとなっていく。

メキシコシティ五輪にはもうひとつ大きな事件が起きていた。

この五輪はボイコットの危機があった。というのは、アメリカではメダルを取るために黒人選手を派遣し、白人を優遇していた。
さらに、体裁上は「アマチュア」のみで収入を得てはならないとされていたが、裏側ではほとんどのシューズブランドから裏金を貰っている状況だった。

男子200mで期待されていたアフリカ系アメリカ人のトミー・スミスとジョン・カーロスは、ストライキと出場で悩んでいた。
黒人差別、そして五輪に対しての不信感からそれに反対する意志を示す必要があると考えたからだ。

結果、この2人が金メダルと銅メダルを獲得することになる。
そして、表彰式で「ブラックパワー・サリュート」と呼ばれる示威行為を行う。

貧困な黒人を象徴するために表彰台の上にシューズを置き裸足で参加。
さらに、国旗掲揚され国歌が演奏されている間、黒の手袋をした拳を握りしめ高々と突き上げた。
この行動に歓声とブーイングが巻き起こり、世界中のニュースで話題を独占した。

世界中の人が注目したこの出来事。白人からすると面白くない出来事であったが、アーミンと|PUMA|の従業員は小躍りした。

この時の表彰台の上に置かれたトレーニングシューズこそ、フォームストライプが入った「SUEDE」の祖先「CRACK」で、多くの人の目に触れる事となったからだ。

闘争の中での多角化
2つの名作の誕生

ホルストは五輪で|adidas|認知を高めつつ、「adidas France」の影響力を高めることを考えていた。

アメリカの販売業者でその後adidas U.S.A.の責任者となるクリス・セヴァーンは、ホルストに「アメリカではバスケットが人気スポーツで、久しく革新が起きていない」と忠告。
ホルストは最初興味を持てなかったが、クリスのアイディアとアメリカ市場の魅力さから取り組むこととなる。

当時のバスケットボールシューズ業界は|CONVERSE|の独壇場だった。彼らのキャンパス製シューズ「ALL STAR」が多くのバスケットボールプレーヤーの足元をサポートしていた。

キャンパス製のシューズはホールド感が弱く、選手はいつも足首や膝を痛めていた。

そこで、革製バスケットシューズとして「SUPER GRIP」を発売する。
その後、つま先を守るため貝の形をしたラバーキャップ「シェルトップ」が導入され、1969年に「Super Star」として販売されるようになる。

このバスケットシューズは、サンディエゴ・ロケッツの選手が履き始めた事をきっかけに認知を広げる。

サンディエゴ・ロケッツ 【バスケットボールチーム】
1967年に設立し、NBAに加入。
後発クラブという事もあり、創設後数年間のロケッツは最下位になるなど苦しいシーズンが続く。
1971年にヒューストンの実業家に買い取られ、同地に移転し「ヒューストン・ロケッツ」に改名。ヒューストンはNASAの本拠地でもあるため「ロケッツ」という名がふさわしくなり、1994年に初優勝する。

しかし、ロケッツが最下位だった事もあり、広がっては行かなかったが、その後チャンピオンとなるボストン・セルティックスの選手が履いたことにより広まる。

ボストン・セルティックス 【バスケットボールチーム】
1946年、NBAの前身であるBAAの発足にともない設立。
NBAの全てのチームの中で最も多くチャンピオンシップを手に入れた名門。

1973年には、プロバスケットボール選手の約85%が|adidas|を履いていたという。これにより参入して数年で、売上の10%以上をバスケットボールシューズで生み出すほどに成長したこととなった。

ホルストはこれだけでは満足しておらず、さらにドイツから主導権を得るために、同時並行でテニスシューズの開発をしていた。

1950年代後半、「テニス」というスポーツが上流階級のスポーツから一般的なスポーツになっていた。

そのような中、プロテニスプレーヤーは2人しかいなかった。
その1人が、ロバート・ハイレットというプレーヤーだ。

ロバート・ハイレット 【プロテニスプレイヤー】
1931年フランス生まれ。
1952年から1960年までに何度も最高峰の国別チーム大会デビスカップに挑戦するが、オーストラリア勢が大会を支配しており、優勝は逃している。1971年に引退。

ホルストは、このハイレットをパートナーに選び、世界初の革製テニスシューズ作りを開始する。

初めてのレザーシューズということもあり、何度やってもソールが剥がれると試作を繰り返した。
1965年についに完成したが、ハイレットは1971年に引退してしまう。

せっかく作った靴の新たなパートナーとして、ホルストが目をつけたテニスプレーヤーが「ゴジラ」の愛称で呼ばれていたスタン・スミスだ。

スタン・スミス 【プロテニスプレイヤー】
1946年アメリカ生まれ。
1968年に全米学生テニス選手権のシングルスで優勝。
1968年からデビスカップに出場し、アメリカ代表の5連覇に貢献。1968年に4大国際大会にプロも出場出来るようになり、1971年の全米オープン、1972年のウィンブルドンで優勝。さらにダブルスでも全豪、全米で優勝し、ダブルスでも1978、9年デビスカップのアメリカ2連覇にも貢献し、デビスカップ通算7勝は史上最多の記録で1987に国際テニス殿堂入りを果たした。

1971年に「スタン・スミス」を発売。彼自身の圧倒的な強さもあり、世界中のテニスプレイヤーが履くようになる。

それだけでなく、当時の規約によりシンプルに作られたこのテニスシューズは、学生たちにも愛されるようになる。
そうして、ギネスブックに「世界で最も売れたスニーカー」として登録されている。

世界で最も売れたスニーカーは|CONVERSE|の「ALL STAR」と言われているが、1924年から販売されており正式な販売数の記録が残っていない。そのため、「スタン・スミス」がギネスブックで「世界で最も売れたスニーカー」と記録されている。

「第2次ダスラー対戦」は、ホルスト率いる|adidas|の、いや正確に言うと「adidas France」の圧勝だった。

本国ドイツのダスラー達は、フランスに飛び出したホルストにやられた形だ。

ホルストはこの後も大暴れする。そして、眠れる獅子アメリカや日本も参入し「世界スニーカー大戦」に発展するのだ。

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